驢事馬事(ろじばじ)
「驢事未だ了(おわ)らざるに、馬事到来す」と読みます。
「驢事馬事」で、『禅学大辞典』には、
「あれこれ、いろいろのこと。種々雑多なこと。ろばやうまを出したのは、別に意味がなく、言葉を巧みに使ったもの」
という解説がなされています。
更に、「驢事未了、馬事到来」という用例が出されて、
「一つのことが終わらないうちに、次のことがやってきたの意。
仏道修行が絶え間なく継続すること」
という解説がございます。
入矢義高先生の『禅語辞典』では、
「驢事未了、馬事到来」として出ています。
「驢事未だ了らざるに、馬事到来す」と読んでいます。
そしてその意味は、
「ロバ相手の用事がすまないうちに、ウマ相手の用事が到来した。やれやれ、もういい加減にしてくれ」という解説があって、
『景徳伝灯録』十一の霊雲志勤禅師の章にある問答が書かれています。
「問う、如何是仏法大意。師曰く、驢事未だ了らざるに、馬事到来す」
というものです。
鈴木大拙先生の『禅の思想』の第二章「禅行為」の中に、この言葉が紹介されています。
大拙先生の書物では、
「驢事未去馬事到来」になっています。
大拙先生は、次のように解説されています。
「此語はよく禅録に出てくるが、ここでは「次から次へと、毎日色々の用に追はれて居るわい」との意に解してよろしい。
朝起きて面を洗ふ間もなく、お客がくる。
大事と見てもよし、何でもないと見てよし、とに角、その用がまとまると、又次のものが来る。
郵便やさんは何かと諸方の書信を配達してくれる。
新聞も見なくばなるまい。
親類や友人間の用事もある。
御役所の勤めもあらう。
読書もしなければならぬ。
庭の仕事もしておかないと、草ははえる、花は咲かぬ。
これが驢事馬事である。
毎日ひっきりなしに何か用事のあるのが吾等日常の生活である」
というのです。
これはお互いに実感することでしょう。
日常の些事が次から次へと起こってくるものです。
それをどのように対処してゆくか、大拙先生は、
「水の流れる如くさっさと片付いて行くところに無功用的生涯がある。
が、どこかにひっかかりが出来ると、さうさらりと行かぬ。
からまる、つきまとふ、ひっかかる、ころぶーそこで物事は行き悩んでしまふ」
と説かれています。
気をつけなければいけないのは、
大拙先生も説かれる通り、
「驢事未だ去らざるに、馬事到来するに追ひまはされて行く限り、自らは主人公でない」
という風になることです。
「何か自分に対して後から逼ってくるものを感ずる以上、自分はいつも一種の圧迫感を抱く、之が「時」である。無功用と云ふことになれぬ」のです。
そこで大拙先生は、
「臨済は「随処作主、立処皆真」と云ふが、十二時を使ひ得るものは、真を体得したものでなくてはならぬ。無功用的行為―これを云ひ換へれば、「立処皆真」の行為である」と指摘されておいて、
「随処に主となるものを攫みたい」と説かれています。
十七日は、上洛して花園大学で授業、この「驢事未了馬事到来」の禅語を紹介して話をしました。
これから年末に向けて、あれこれと次々所用が立て込みます。
私なども、年末年始の色紙を書かねばならない、例年ですと年賀状ですが今年は喪中葉書を支度しなければならない、それに原稿を書いたり校正したり、加えて毎日の手紙の返信を書いたりと、それこそ次々ひっきりなしに用事があります。
それを、驢事馬事に追われてやるのではなく、自分の方から驢事馬事を追いかけるくらいの気概で臨まないと、「随処に主と作る」とはなりません。
気をつけねばと思っています。
横田南嶺