無念
しかしながら、世の中は、依然として動いているようで、私のところにも来客が相次ぎ、依頼事も入るようになっています。
頼まれたことの一つに、熟年向けの雑誌の取材がありました。
「熟年」と聞いても、自分には関係がないと思っていました。
まだまだ「青年」のつもりでいるのです。
熟年生活を応援するという雑誌に出て欲しいと言われて、愕然としました。
そうか、自分も既に熟年に入るのかと思ったものの、とても熟しているとは言いがたく、今なお新たな事への挑戦に燃える青年であると、秘かに心の中では思っています。
更には、平素お世話になる春秋社の方がお見えになって、鈴木大拙先生の復刻本を頂戴しました。
大拙先生生誕百五十年で、『禅問答と悟り』、『禅による生活』、そして『金剛経の禅・禅への道』の三冊が復刊されたのでした。
『金剛経の禅』のなかに、「無念」という一章があります。
無念という言葉は、日常でもよく使います。
『広辞苑』で調べると、
第一には仏教語として、「妄念がないこと。無心であること」という意味が記されていて、
更にもうひとつ、「(正念を失って)口惜しく思うこと。不本意。残念」という意味もございます。
残念無念というのは、後者であります。
大拙先生の解説には、
「六祖の時代に、無念ということが強く主張せられた。六祖は「無念を宗となす」といっている」のだそうです。
「達摩時代には無念よりも、無心が使われていたようである。しかし無心も無念も同じ意味である」
ということだそうです。
そして、大拙先生は、
「この無心の無念が体得せられたときに、仏教はことごとくわかるのである」
とまで仰せになっています。
では具体的にどういう事なのか、大拙先生の解説に沿ってみてゆきましょう。
「無心または無念、または一念、これを正念ともいうのである。それでよく「正念相続」ということがある」
と説かれています。
「無念」というのは、何も思わないことではなくて、「一念」に通じ、「正念」であるのです。
その正念を相続する「正念相続」とはどういうことかというと、大拙先生は、
「絶対の現在そのものの働くところを踏みすべらないようにする」
というのです。
具体的には、「それは直線的に過去や未来が上がったり、下がったりすることでなしに、周辺に妨げられない一円相の中で、いたるところに中心を据えているという自覚である」
と少々難しい表現をなされていますが、過去のことや未来のことに気を止めないことです。
この無心無念を、「仏教のほうでは三昧である」と表現されています。
三昧とは、
岩波の『仏教辞典』には、「サンスクリット語・パーリ語samdhi に相当する音写。<三摩地(さんまじ)>とも音写する」と解説されていて、
「心を静めて一つの対象に集中し心を散らさず乱さぬ状態、あるいはその状態にいたる修練」だということです。
大拙先生も「三味というのは梵語の音訳で、その意味は正受である。
「正しく受ける」ということは、無念すなわち一念に、すなわち正念に住することである。
花を見れば花と見る。
山を見れば山と見る。
鴉が鳴けば鴉と聞く。
これが「正しく受ける」、三昧である。単なる感性的直覚でなくて、霊性的直覚に裏づけられているところのものである」
と説いてくださっています。
そしてそれは更に「よく人のいう「成りきる」ということ」だと示してくれています。
大拙先生は「「成りきる」、「そのものになる」ところでは、念が二つに分かれないで、一念すなわち無念である」と解説されています。
要するに過去を顧みずに、未来も思わずに、ただ今目の前のことに集中して余念を交えないことなのです。
無念は、「残念無念」でもなく、何も思わぬことでもなく、只今のことに集中して充実した状態であります。
『論語』に「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざる」とあるように、一つのことに打ちこむうちに、自分の年齢も忘れしまうほどなのです。
そうするうちに気がついたら、「熟年」になっているのかもしれません。
ぼやぼや暮らして年を取ってしまって、「ああ残念」とならないように心したいものです。
横田南嶺