平塚らいてうと臨済録
明治三十八年、まだ十九歳の時、日本女子大学校の生徒だった時に、平塚らいてうは、たまたま「あまり親しくしていなかった同級生の部屋に、ふとした出来心で立ち寄ったとき、机の上に置かれた『禅海一瀾』という、和綴木版刷り、上下二冊の本が目にとまりました」というのです。
『禅海一瀾』は、一昨年岩波文庫から釈宗演老師が講義をされた『禅海一瀾講話』として復刊しました。
宗演老師が丁寧に解説してくれているのですが、今では難しいとよく言われます。
しかし明治の頃に、まだ木版刷りしかない、漢文だけの書物を当時の女学生が読んでいたのであります。
そこで、平塚らいてうが、本を開いて目にした言葉が、
「大道は心に求む、外に求むること勿れ、我が心体の妙用は、直に我が大道なり」
という文章でした。
もちろんのこと、本には漢文のままで書かれています。
「大道求于心、勿求于外、我心体之妙用、直我大道也」というのが原文です。
これを目にした平塚らいてうは、
「「大道を外に求めてはいけない、心に求めよ」ということばこそ、観念の世界の彷徨に息づまりそうになっている、現在の自分に対する直接警告のことばではありませんか」
と思ったのでした。
そこで、
「わたくしは息をのむ思いで、矢もたてもなくこの本を借りうけて帰りました」
というのであります。
当時の女学生たちの教育水準の高さと、またそれと同時に、今北洪川老師の影響力の大きさも改めて思います。
そして、以前小欄でも書いた通り、両忘庵の釈宗活老師に参禅を始めたのでした。
その当時のことで、「おなじ家政科の同級生に井上咲子さんといって、あまり思想問題や信仰問題などに関心をもたない、むしろ無邪気な、単純な人がおりました。この人がそのころ、南天棒老師に参禅し、一回の接心に参加しただけで – 一週間学校を休んだだけで – 見性したという、わたくしにとっては驚くべきことがありました」という事があったそうです。
読んでいる私も驚きました。
その彼女は、卒業後結婚することになっていて、その婚約者が禅に熱心で、結婚の条件として、坐禅をして見性することを求めて、見性するまで結婚しないということだったというのです。
そうして参禅を続けるうちに、ある摂心の最中に、みんなと一緒に合掌して四弘誓願文と白隠禅師坐禅和讃を読んでいて、「このとき何をか求むべき、寂滅現前するゆえに当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり」と唱えおわって、合掌の手を膝の上に置こうとする途端に、急襲のように大粒の涙がはらはらと膝の上に落ちて、拭う暇もないという経験をされたのでした。
以下、その時の様子を記述したものです。
「この日の老師の臨済録の提唱も忘れがたいものでした。
六十年前の記憶で少しあやしいのですが、
いま思い出をたどれば、仏身には法身仏、報身仏、化身仏の三つの種類があるが、こんな区別ばかりの名前で、本来あるものではない。
諸仏の本源は、いまここで説法をきいている人、それは形もなく、位もないが確かに存在しているこの無位の真人を見よ。
これさえほんとうに見究めれば、その人はだれでも仏と同じである。
そうなれば一切時中、觸目皆是、随所解脱である、というような意味のことでした。
「赤肉団上有無位真人常面門出入看よ看よ」
(無位の真人本来の面目が赤肉団上より常に出入す、看よ看よ)という老師の充実した声が、頭のてっぺんから躯の中をすっと電流のように通り抜けた感じとともに、その瞬間「わかった!」と思ったものです」
というのです。
文章は『平塚らいてう自伝 元始女性は太陽であった』から引用しました。
こういう体験がもとになって、1911年(明治44年)9月に『青鞜』が創刊されたのでした。
創刊の辞には、
「元始女性は太陽であった、真正の人であった。
今、女性や月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな青白い顔の月である」
と書かれています。
それから、百年以上経った今、実に女性は太陽であり、その力に依って生き、その光によってようやく輝く、青白い顔の月は男性であります。
私の周りにいる人たちをみると、そう思います。
平塚らいてうの偉大さ、当時の知識水準の高さ、そして当時の禅の大きな力を感じます。
それと同時に、今の状況を反省させられます。
横田南嶺