くり返しの尊さ – 其の二
どれも下手の横好きで、全くなにもなっていませんので、恥ずかしくて何を習っていたのか挙げることもできません。
その中で、中国語もございます。
これは、毎月湯島の麟祥院で、小川隆先生の臨済録の講義を受けていて、毎回小川先生が、実に流暢な中国語で、臨済録の本文を朗唱して下さるのを聞いていて、自分もまねできたらいいなと思って習い始めたのでした。
もとより、昨年などは、いろんな行事もあって、予定がびっしり詰まっている中で、中国からの留学生の方に教わっていたのですが、予習も復習も十分出来ない中で、ただ先生のなさる発音をそのまままねていただけでありました。
中国語はもとより、それらの習い事は、すべてコロナ禍にあって、出来なくなっていました。
加えて、講演などのすべて無くなってしまっていましたので、私の頭も心も体もすっかり怠けきってしまっていました。
先日、小川先生の毎月の講義をオンラインで行っていただくために、円覚寺において録画をしました。
その後、ほんのわずかの時間ですが、小川先生から中国の初歩の初歩をご教授いただきました。
オンライン講義を拝聴していても、小川先生が麟祥院でご講義いただいていた頃に教わった、中国語の補語の説明をしてくれていました。
これも何度も習ったのですが、麟祥院で教わっていた時には、心の中で、これが臨済録とどう関わるのかなどと、疑問に思いながら聞いていましたので、十分に理解もできていませんでした。
それが中国語を習う時にも改めて補語を教わり、そしてこのたびもまた丁寧に補語を教わっていて、なるほどとようやく一層理解を深めることができました。
それまで何度聞いたことでしょうか。
結果補語、方向補語、様態補語、可能補語と教わって、「そうだ、そうだ」とようやく思い出して、なるほどと理解ができました。
やはりくり返しくり返し聞いてきてようやくなるほどと思えるものであります。
中国語の初歩をご教示いただいて、昨年まで教わっていたという記憶は残っているものの、教わった内容はすっかり消えてしまっていることに気づいて愕然としました。
「諸法は、壊法なり」とはブッダの言葉でした。
すべてのものは、朽ちて壊れるものだというのです。
まさに私の記憶はあとかたもなく壊れていました。
もはや、覚える量よりも、崩れ壊れ去る量の方が多くなっているのだとわかりました。
砂浜で砂の山を作ったつもりでいたのに、明くる朝には完全に波と共に消えていたようなものです。
あれ、作ったはずの山はどこに?と思っても手遅れであります。
我が身にも老いの波は確実に押し寄せているのです。
昔から、信心の話をするのに、いくら話を聞いてもすぐに忘れるのは、ザルで水を汲むようなものだと言います。
ザルですから、全然水はたまらないのです。
それでも根気よくくり返しくり返し聞いていると、ザルに水あかが出来るように、ほんのわずかでも残るものがあるのだというのです。
今までは、人ごとのように思っていましたが、まさに我が頭がザルになっていました。
こうなると、今まで以上に何度も何度もくり返しくり返し聞いて、水あかが出来るように努力するしかありません。
『論語』に、
「学びて時に之を習ふ。亦説(よろこ)ばしからずや」とあります。
「習」という字は、小鳥が羽を広げて飛び方を習うことだ聞いたことがあります。
私などは、もう飛べぬと思いますが、それでも衰えぬようにくり返し習うことが大切だと改めて思いました。
横田南嶺