多子無し
十月には四十名ほどお入りいただいて、今月は五十名の方でした。
十分間隔を取ってお坐りいただいたのでした。
それと同時に、動画で配信しました。しばらくは、このように中には人数限定でお入りいただいて、同時に配信するというやり方で行うようになるかと思っています。
カメラだけに向かうよりも、聞いてくれる人がいてくださる方が有り難く、話し易いのですが、全員しっかりとマスクをしていますので、こちらから表情が読み取れないが、辛いところです。
今どんな表情をしてくれているのか、納得した顔をされているのか、どうも分からないという表情なのかを読み取ることができません。
これは、これでやりにくいものです。
マスクの下では、いろんな表情をなさってくれているのでしょうが、全く見えないので、無反応の中を話しているように感じてしまいます。
そんな中で大きくうなづきながら聞いてくれる方がいると、ホッとします。助かるのであります。
それから、八日の法話で、皆さんの反応が分かったのは、ただ一カ所、あの「こんにゃく問答」の話をした時でした。
この時だけ、皆さん笑ってくださったので、反応を確かめることができました。
しかし、こんにゃく問答の話は、伝えたい大事な内容ではありません。
若い日の臨済禅師が、師の黄檗禅師に参じた時の問答です。
仏教の学問を修めてきた臨済禅師が、黄檗のもとで修行していました。
のちに当時の自分の心境を「黒漫漫地」と表現されているように、真っ暗な中を模索しているような状態でした。
黄檗禅師のところに問答に行きなさいと先輩の僧から勧めてもらうものの、何を聞いたらいいのかも分かりません。
仏法の一番大事なところは何ですかと問いなさいと教えられて、黄檗禅師のもとにゆくのですが、その質問も終わらない内に、棒で打たれて追い返されてしまいました。
もう一回行きなさいと言われて、行っても同じこと、更にもう一回行きなさいと言われても同じように、棒で打たれて追い返されてしまいました。
失意のうちに、臨済禅師は大愚禅師のもとを訪ねました。
黄檗禅師はどのようなことを教えているのかと問われて、臨済禅師は事の顛末を正直に伝えました。
すると大愚禅師は、「なんと黄檗禅師はそんなに親切だったのか、あなたのためにヘトヘトになるまで骨折ってくれたのかと」と言ったのでした。
臨済禅師は、その一言で気がつきました。
黄檗禅師の教えは、実に端的そのもので、余計なものは何もなかったと領解することができたのでした。
「実に端的そのものであった」とは、原文では
「黄檗の仏法多子無し」となっています。
「多子無し」とは、夾雑物がない、簡単にして単純なことを示しているのです。
従来の訳ですと、「黄檗の仏法なんでそんなたあいもないものだったのか」となっています。
そんな価値的な意を入れるよりも、「黄檗の仏法は端的だったのだ」という方が明解です。
「くだくだしき道理も意味づけも無い、「即心是仏」という事実の端的な提示」だというのが小川隆先生の解説です。
仏法とは何を問おうとしている、あなた自身こそが仏法そのものであるという、実に端的なお示しだったのです。
別段棒で叩いて気合いを入れようとかという話ではありません。
そのあなたの身体と心にまるごと全体現れていますよという直接的な示し方だったのです。
日曜説教では、火の神が火を求めるという譬えをしました。
全身が炎で燃えている神様が、余所の家にマッチを貸してくださいというようなものです。
あなた全身が火ですよ、余所から借りる必要はありませんというのです。
求めようとする心こそが仏である、改めて何か得られる訳ではないというと、一見すると何か頼りないように感じるかもしれませんが、これ以上ない自己肯定の教えです。
はじめから仏であるのだから、失敗のしようがないのです。
自ら気づくかどうかだけの問題なのです。
人間かくあらねばならないと、あまり自己に厳しくしすぎると行き詰まってしまうことにもなりかねません。
向上していくためには、自己否定も必要ですが、否定だけでは行き詰まります。
この心こそがそのまま仏なのだと受けとめることは、大きな自己肯定になります。
自己否定と自己肯定、その両方が大切なのです。
特に今の時代には、自分に自信を持てない人が多いようなので、その心がそのまま仏であるという教えは大きな力になります。
それにしても、日曜説教でも小一時間にわたって、長々話をし、こんにゃく問答の実演まで行いました。
「多子無し」というように、端的そのものを示すということは実に難しいことです。
横田南嶺