くり返しの尊さ
全編を通じて、ただ「不生の仏心」ひとつのことをくり返し説いてくださっています。
単調といえば単調でしょうし、今風の言葉でいえば、「マンネリズム」というのかもしれません。
不生の仏心とはどんなものかについては、いつも恩恵をいただいている小川隆先生の『禅思想史講義』の中で、一〇二ページに次のように説いて下さっています。
以下引用させていただきます。
「盤珪は「不生の仏心」ということをしきりに説きました。
「不生」というのは後天的に新たに生み出されたものでなく、もともと具わっているものだということです。
親から生みつけてもらったものは、この「不生の仏心」ただひとつ。
それにさえ目覚めておれば、寝れば「仏心」で寝、起きれば「仏心」で起き、歩くも坐るも、しゃべるも黙るも、飯を食うのも服を着るのも、みな「仏心」での営みにほかならない。
さすれば、へいぜいより自らが「活き仏」なのであって、いついかなる時も、自ら「仏」でない時がない。
ことさら「仏」になろうと励んだり、修行中の居眠りを叩いたり叱ったりするのは、とんだ見当ちがい。
わざわざ「仏」になろうとするよりも、「仏」でいるほうが、面倒がなくて、近道でござる。
盤珪はいつもそんなふうに説いていました」
というものです。
毎回毎回この「不生の仏心」の話一つなので、時には盤珪禅師ご自身も他の人から、もう少しいろんな譬え話や、仏教の説話なども取り入れて、分かりやすく説いたらどうだと言われたこともあるらしいのですが、頑として応じません。
そのような余計な話を織り交ぜることは、聞く側にとっては毒にしかならないと言っているのです。
そして盤珪禅師は、不生の仏心の話を毎日毎日くり返ししていれば、今まで聞いたことのある人でも、聞けば聞くほど確かになってゆくし、説法の場には必ず初めて聞くと言う人もいるので、その人の為にははじめから一番大事なことを聞かせてあげるのが親切だと説かれています。
それで、ただひたすら不生の仏心ひとつを説いてくださっているのです。
これは、実は容易なことではありません。
同じ話をするのですから、造作のない楽な事のように思われるかもしれませんが、これが実は大変なのです。
落語の師匠にも聞いたことがあります。屋形船のツアーの企画で、毎回最初から最後まで同じ話をさせられることがあったそうで、これほど大変なことは無かったというのです。
いろんな話をしている方がたのしいし楽なのです。
同じ話をずっと行うことは大変な根気がいるのです。
盤珪禅師がご生涯不生の仏心一つと説き続けられたことは実に偉大なることであります。
私も少しでもあやかろうと思って、盤珪禅師の語録を読んでいます。
くり返しくり返し読んでいると、段々と不生の仏心ひとつということが身体と心に染み渡ってくるように感じます。
私が行っているくり返しといえば、せいぜい法話の前に、
「生まれたことの不思議、
今日まで生きてこられたことの不思議、
今こうしてここでめぐり合えたことの不思議、
に手を合わせて感謝しましょう」
ということの一つであります。
これだけは繰り返して続けてゆこうと思っています。
これは意外に、布教師さんの中にも、取り入れて下さっている和尚がいらっしゃって有り難く思っています。
かつて薬師寺の高田好胤和上のお話を聴いた時に、話を始める前に
「かたよらないこころ
こだわらないこころ
とらわれないこころ
ひろく ひろく
もっとひろく
これが般若心経
空のこころなり」
と唱えてからお話になっているのに感銘を受けて、自分なりに取り入れてみたのでした。
臨済録なども難解のように見えて、ただひたすら同じ事のくり返しでもあります。
少々言葉が難しいのですが、同じことであります。
くり返しの尊さ、大変さを思います。
これも高田好胤和上であったか、
「毎回毎回同じ話を、初めてするかのように情熱を持ってできるのが、本当に法話なのだ」という意味のことを何かで読んだ覚えがあります。
くり返しくり返し続けてゆこうと思います。
横田南嶺