愛について – 其の二
今年はやむなく中止にしています。
管長に就任する以前は、毎年この宝物風入れの会場に三日間終日坐って、宝物の番をしたものでした。
いろんなことを質問されることもありますし、お昼前後には人も随分混み合うので、まるで雑踏の中を坐っているようにもなって、けっこう大変なのでした。
それでも空いている時間には、少しばかり本を読むくらいのゆとりがございました。
かつてその宝物風入れの時間で、僧堂の隠寮に代々の老師方に伝わる古い木版本の書物があって、それも風入れを兼ねて、目を通していました。
一時期に『中峰和尚語録』を読んでいました。
中峰和尚の語録は全二十巻もある浩瀚なもので、内容も実に豊かな語録です。
もっともすべて漢文ですので、難解な書物ですが、読むと分かります。
ふと読んでいた中に、何と中峰和尚が「愛」について述べているところがありました。
昨日の小欄でも記したように、仏教では「愛」は煩悩なので、悪いものだと説かれます。
ところが、中峰和尚は「愛」について、これは生死迷いの根本であると同時に、迷いの世界を越えて悟りに至る近道でもあると示されています。
つまり、愛にはその二種類があるというのです。
その仏道にかない悟りに近づく「愛」とは、中峰和尚は端的にそれは人を愛すること(衆人を愛す)だと述べています。
人を愛すること、それはどういう事かと言えば、人々を速やかに迷いから悟りに到るように願うことです。
この心を持つことは、なにより悟りに至る近道になると説いています。
この愛の心があればことさらに仏道にかなおうと努めなくても何をしても自ずから仏道にかなってくるとまで述べています。
逆に迷いを引き起こし、苦しみの本になる離れるべき「愛」とは己を愛することだと明確に論じています。
これは盤珪禅師が繰り返し説かれた「身のひいき」にほかなりません。
この己を愛することによって様々な怨み、ねたみ、執着、苦悩が生じてきます。
私たちが毎日最もよく読む四弘誓願があります。
その第一は、「衆生無辺誓願度」です。
これは取りも直さず人々の救い、幸せを願う心です。
人のためを思う心です。
この心が先でありまた究極でもあります。
修行は必ずこの「人を思う心」を先にしなければならないと祖師方は皆口をそろえて説かれています。
東嶺和尚はこの事を商いに喩えて、商売でも自分の儲けだけを考えてやる商売では大きな仕事は出来ないし、また却って失敗してしまう、
逆に常に人々のこと、広く世界のことを考えて行う商いは、結局大きな仕事も出来るし繁栄していくようなものだと説いています。
更に東嶺和尚はこの大慈悲の心をもって修行していけば、この大悲心がおのずと自らの心に、香りが移るように熏習して、早く仏心にかなう道であると述べています。
禅堂での修行は一見して自分自身の為の修行と思われがちですが、決してそうではありません。
典座という台所の係りを勤めるときには、それこそ皆のことを思って親身になって料理三昧になります。
直日という禅堂で坐る役目の時には、坐禅する皆の事を思って堂内を引き締めて参ります。
侍者寮という役目になれば、皆のことを思ってお茶の支度、身の回りのお世話、病気になる者がいれば親身に看病します。
寒いときには少しでも暖かいものをと心がけます。
というように、自分だけを大事にして可愛がる愛は、迷いのもとであるし、広く人々を愛する心になれば、悟りの道なのです。
同じ愛でも、大きな差がでてきます。
愛を煩悩だといって斥けるのではなく、皆を愛する慈悲に高めようとすることの方が、やりがいもあるものです。
横田南嶺