愛について
日本仏教の五十九の宗派が加盟しています。
各本山の管長が持ち回りで、会長や副会長を務めています。
私も一時期副会長を務めました。
その時の会長が、比叡山の半田孝淳座主でいらっしゃいました。
天台座主というと、日本仏教の頂点の方でいらっしゃいます。
とても私如きが、親しくできるものではありませんが、役目柄行事のたび毎に、座主の隣席に坐らせていただき、親しく会話もさせていただいたのでした。
あの全日本仏教会副会長時代には、会長の天台座主をはじめ、広く他宗派の方々ともご縁をいただいて、それまで狭い修行の世界にしかいなかった私には、大きな眼を開かせていただきました。
しかしながら、その頃の私はまだようやく五十になる頃で、九十を超えた座主の後を歩くのは、いつも恐縮していました。
ただいまの、全日本仏教会会長は西本願寺の大谷光淳門主でいらっしゃいます。
ご門主は、1977年のお生まれですので、まだ四十代であります。
今年の四月から会長にご就任されています。任期は二年。
ご就任の記念に、会長ご揮毫の扇子とご著書を送っていただきました。
本は、『令和版 仏の教え 阿弥陀さまにおまかせして生きる』という題です。
幻冬舎からの出版で、
「どうしたらどん底から立ち上がる力を得ることができますか?
人は死んだらどうなるのですか?
よいことをするとご利益はありますか?
悪いことをするとバチが当たりますか?」
などといった質問にご門主が答えるという形になっています。
その質問の中に、
「仏教では「愛」について、どのように教えているのですか?」
という項目がありました。
ご門主は、「仏教では「愛」も深いとらわれの心、執着の一つとしてとらえています」
と答えられています。
これはその通りなのです。
ご門主は、『ダンマパダ』の句をあげて説明してくれています。
「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?」
の一句であります。
そして、「私たちが最後まで捨てきれない煩悩は愛なのかもしれません」
と結んでおられます。
ご門主の説かれていることは、仏教に於ける「愛」についての模範解答と言ってもよいほど完璧であります。
その通りなのです。
しかしながら、釈宗演老師は、この「愛」にも積極的意味を持たせて、仏教の究極である「慈悲」に通じるものとして説かれています。
宗演老師には、「愛」の一字を大暑した墨跡がございます。
普通であれば、煩悩の一つでありますので、この一字を大書することはありません。
それを敢えて大書して、その下に小さく、
「仏云く、仏心は大慈悲是れなり」と書かれているのです。
宗演老師にとっての「愛」は、実に仏の大慈悲と一つだということなのです。
多年宗演老師に師事された鈴木大拙先生も、宗演老師を偲んで、
「(宗演老師には)一種の愛があったことを今でも忘れぬ。
此の愛を何かに付けて予は感じた。
予が米国に行くようになったのも老漢の厚情であった」
と述懐されています。
横田南嶺