馬祖の禅
弘法大師の言葉に、
「仏法遙かにあらず、心中にして即ち近し」
というのがあります。
仏法は遠くにあるのではなく、心の中にあるというのです。
素晴らしい教えであります。
しかし、その心が様々な煩悩や妄想、知識分別に覆われてしまって、肝心の仏心仏性なるものは現れていない。
そこで、塵を払い埃を除くようにして、煩悩妄想を払いのけて、本来の清らかな仏心に目覚めようと説くのが分かりやすい教えであります。
きれいな鏡に塵埃が積もってしまっているので、その塵や埃を払いましょうというのです。
そういう教えに対して、馬祖の教えは、その仏法を求めようとしている、まさにその心がまるごと仏なのだと示されたのでした。
これを「即心是仏」と言います。
そんな馬祖の教えが臨済の禅の元になっています。
駒沢大学の小川隆先生は、更に分かりやすく、
「「即心是仏」といっても「仏」と等しき聖なる本質が心のどこかに潜んでいる、というのではありません。
迷いの心を斥けて悟りの心を顕現させる、というのでもありません。
己が心、それこそが仏なのだ。
その事実に気づいてみれば、いたるところ「仏」でないものはない」
と『禅思想史講義』に示してくださっています。
これは、勘違いをされると、何をやってもいいのかという問題になりかねません。
しかし、決して何をやってもいいのだという自堕落な教えではありません。
馬祖禅師にしても、純一に坐禅修行をされていました。
自分の心を精密に見つめて、煩悩や妄想を取り除こうと必死になって修行されていたと思います。
しかし、いくら修行して取り除こうと思っても、自分の心にはどうしても除ききれない煩悩がある、妄想を取り除ききれないと思われたのだと察します。
そうして、究めて究めて行っていた先に、馬祖は南嶽禅師に出逢って気がついたのでした。
そうだ、煩悩だ妄想だといって取り除くことはないのだ、これらを含めたまるごとこの心が仏なのだと。
これは素晴らしい目覚めです。
臨済禅師にしても同じです。
それこそ「行業純一」に究めて究めていって、黄檗禅師に出逢って、この身も心もまるごとが仏法そのものだったと気がついたのでした。
最初から何もしなくてもいいというわけではありません。
自己を究めていった末の、大肯定なのです。それが真の救いになったのです。
横田南嶺