集中と観察
「止」とは、心を一点に集中させることであり、「観」はありのままに観察することです。
「観」では、ありのままに観察することであって、それはそのまま「空」を観察することになり、諸法無我であるとか、諸法実相を観察することにも発展してゆきます。
この両方が大切であります。
坐禅では、「止」を用いて集中することに重きを置いています。
特に我々の修行では、心を丹田に集中し、「無」の一字に集中して修行します。
『天台小止観』では坐禅をしているとき、心が暗くふさがって意識がはっきりせず、ぼんやりするような時、あるいは、眠くなって仕方のない時には、「観」を修してこれを照らすと良いと説かれています。
そんな状態の時に、丹田に集中しようとすると余計に眠くなったり、心が沈んでしまいます。
逆に 心が浮わついてしまい、ゆれ動いて落ちつかないようなときには、「止」を修してこれを止めると良いと説かれています。
そんな状態の時には、一点に心を集中させることは効果があります。
更に『天台小止観』では、「禅定」と「智慧」の問題を論じています。
集中して禅定に入っても、それだけでは、智慧が無いと指摘されています。
正しい判断が出来なくなるというのです。
これはまさしく集中の弊害でありましょう。
集中することは、一つに打ち込んで周りが見えなくなります。むしろ周りの景色も音もすべて遮断してしまうのです。
ひとつになりきるのは大きな力になりますが、もしその方向を一歩間違えば大きな害にもなりかねないのです。
また智慧が無いと煩悩を断ちきることもできないと説かれています。
その時には、「観」を修めることだというのです。
正しい道理を冷静に観察する眼が必要であります。
その基礎の基礎として、自分の身体や動きをありのままに観察することがあるのです。
自分を客観的に、時には俯瞰してみるのです。
そして、煩悩がどのように起きるのか、十二因縁などの真理を観察するのです。
集中一辺倒ではだめだというのです。
そうかといって、「観」ばかりを修めていると、智慧があっても禅定が足りないことになると『天台小止観』では説かれています。
智慧があっても禅定が足りないと、心は絶えず揺れ動いてしまいます。
灯火があっても風に揺らいで、ものをうまく照らせないようなものだと説いています。
確かに観察は大事な修行ですが、観察ばかりに偏ってしまうと、なんだか力の弱い、生気の無いような状態になりかねません。
そこで、やはり一点に集中してなりきる力も必要になってきます。
禅定の無い智慧は、倒錯した智慧になると説かれています。
それには、「止」をしっかり修めて集中することが大切なのです。
「止」を修めることによって、智慧の灯火も揺らぐことがなくなって、より一層ありありとはっきり智慧が顕わになるのです。
「止」と「観」、「禅定」と「智慧」とが、それぞれ均衡を保つことが大切だと説かれています。
これはまさしくその通りであります。
僧堂の修行は集中に偏っているところが見られると思って、この頃は観察の修行の意識して取り入れるように工夫しています。
横田南嶺