坐禅に入る前
まず坐禅に入る前から、坐禅は既に始まっているのです。
よく武道の稽古などでも、道場に入る前から稽古が始まっているなどということを聞きますが、同じことであります。
『天台小止観』によると、
「坐禅を始める前から、歩くにも立ち止まるにも進むにも止まるにも、動くときも静かにしているときも、何かをしているときも、一一がみな注意深く綿密であるがよい。
もし動作が粗雑であれば、息づかいもそれだけ乱れる。
息づかいが荒いと、心も乱れておさめにくくなる。
坐禅をしてみても、心が乱れがちで、落ち着いた気分にはなりにくい。
だから坐禅を始める前から、あらかじめ用心して注意しなければならない。
そのように用心しておいて、いざ坐禅を始めようとするときには、なおよく身も心も落ち着けるような場所を選ぶようにしなければならない」
と説かれています。
バタバタしながら、あわてて座布団の上に坐っているようではいけません。
僧堂などで、「足音を立てるな」とやかましくいうのは、ひとつひとつの動作を丁寧に行っていると、自然と足音がしなくなるのです。
ところが、それをただ頭ごなしに「足音がうるさい」と怒鳴ってしまうと、逆効果になってしまいます。
それから、坐禅を始めるにも、
「まず体ならびに手足や肢節を揺り動かすこと、七八反ぐらいにするがよい。自分で自分を按摩するかのように、手足にしこりを残さないようにする。
つぎには、身を正しくする。
全身を端正にして背骨をまっすぐにして、曲がることもなく反り返ることもないようにする。
次に、口を開き、胸中の穢気を吐き去る。そのとき身体のなかの具合の悪いものを悉く放ち、それが吐く息にしたがって出てゆくと観想する。
出し尽くしたら、口を閉じ、鼻から清気を入れる。
このようにして三度ほど繰り返す」
というように、慎重に準備をして坐禅に入ってゆくます。
どうも僧堂では、さっさと行うことばかりに気を取られていて、慎重に禅定に入ることが疎かになっていると思って、この摂心の間に、『天台小止観』を参照しながら、禅定に入るという基本について講義をしています。
本当は『臨済録』を講義する予定なのですが、初心の方にいきなり『臨済録』を講じても通じないので、『臨済録』が出てくる基盤となる禅定について説いているところであります。
こういう綿密な修行が、臨済禅師にしてもその下地にあるのであります。
横田南嶺