時間どろぼう
十一日は、「時間どろぼう」という題でありました。
海原先生は、毎日お仕事や歌にと活動なさっているのですが、「どんなに若い頃と同じように活動できても、確実に季節は進んでいる」といって、
「だからやっぱり、時間を大事にしたい」と書かれています。
それには、「時間どろぼう」から身を守ることが必要だというのです。
「時間どろぼう」とは何かというと、
たとえば
「とくに見たくもないテレビをだらだら見ている」、
「ネットサーフィン」などだそうです。
更に海原先生が、「時間どろぼう」だと思われているのが、
「人のうわさ話や悪口」、
「後悔で自分を責める」などだというのです。
それから、本当は嫌なのに、悪く思われたくなくて無理に出席する会合も「時間どろぼう」だと書かれています。
なるほどなと思いました。
こういうことが大切な時間を無駄にしてしまうのです。
禅の修行においても「光陰惜しむべし。謹んで雑用心すること莫れ」と戒めています。
更に海原先生は、時間どろぼうの目安になるのが、「自分が主語になっているか否か」だというのです。
ですから、たとえ同じように「だらだら過ごす」のでも、自分自身で、「今日は一日ぼーっと過ごしたい」と思って過ごすのなら、時間どろぼうの被害にあっていないというのです。
受け身で過ごす時間は、「時間どろぼう」の被害にあうことが多く、自分が主語になっていて、明確な気持ちで行動する時間は、時間どろぼうの被害を受けることはないと書かれています。
唐代の禅僧、趙州和尚は、「人は、時間に使われるが、自分は時間を使っている」と仰っています。
原文は、「十二時中、如何が心を用いん。師云く、汝は十二時に使わる、老僧は十二時を使い得たり。汝、那箇の時をか問う」
というものです。
訳しますと、「一日二十四時間、どのように心を用いたらよいのでしょうか。師は答えた、あなたは二十四時間に使われている。私は二十四時間を使いこなす。あなたはどの時間のことを尋ねるのか」
という意味です。
趙州和尚などは、一日まさに自分が主語になって時間を過ごしていたのでありましょう。
時間に使われないように、「時間どろぼう」の被害に遭わないように、自分が主人公となっているかどうか気をつけなければなりません。
そんなことを意識して、瑞巌和尚という方は、毎日自分自身で「主人公」と呼びかけていたのでしょう。
また臨済禅師が「随処に主と作る」と説かれたのも頷けるのであります。
横田南嶺