正しい教え
これこそが正しい教えだと、受けとめてしまうと、それ以外のものは誤った教えであるということになってしまいます。
薬にも、万能薬というのがございます。これであらゆる病に効くというのです。今の時代では、そのような薬は、そんなに信じられないものです。
もし、その万能薬を信じて、それですべての病が治るのだと思っていたら、それこそ大きな問題でしょう。
その症状により、その人により、あるいはその季節により、あるいは同じ人で同じ季節であったも、その日の体調によってさまざま処方箋が違ってくるものです。
教えにしても、これが絶対だというものはないと思います。
その人、その人の応じた、その時その場に応じた教えがあるのだと思っています。
何が正しいのかを考える為には、お互いに検証し議論し合うことが大事です。
「公論」ということがあります。公に議論することです。
大慧禅師が、「天下の公論というものを、廃してはいけない」と言っています。
皆で議論することは大事だというのです。
すぐれた一人の人物について皆で論じ合うと、その人の話を聞いたりすると心に喜びが生じるのです。
逆に、あんな人は問題だ、あんな行いはいけないと議論すると、人は皆それを我が戒めにすることができます。
実に私たちが学んでいる「禅」の教えは、これこそが絶対の真理だという聖典があるわけではなく、この人こそが絶対だという教祖がいるわけではありません。
価値観は相対的で流動的なものです。そこで、常にお互いに公論して、論じ合って研鑽を重ねるのであります。
『臨済録』を学んでも、この『臨済録』こそが絶対だなどと思ってしまうと、それこそ、臨済禅師の三十棒を喫することになるでしょう。
山田無文老師の『臨済録』のオビに
「臨済がみんなに求めるところは、人にだまされるなということだ。
学問にだまされるな、社会の地位や名誉にだまされるな。
外界のものにだまされるな。何ものにもだまされぬ人になれ、それだけだ」
と書かれています。
お釈迦様に、カーラーマの人たちに説かれた教えが伝わっています。
私が初めてこの経典を知ったのは、たしか曹洞宗の内山興正老師の本だったと思います。
誰の説を信じたらいいのか迷ってしまったカーラーマ村の人たちにお釈迦様が説かれたのでした。
「人から聞いたこと、古い言い伝え、世間の常識、あるいは文字になっているもの、そういうものを鵜呑みにしてはいけない。
想像、推測、外見、可能性、あるいは師の意見、そういうもので教えが真理であると決めつけてはいけない。
自分が直接、「この教えは正しくない、間違っている、賢者も批判している。この教えを実行すると弊害があり、人々が苦しむ」とさとったとき、それを捨てればいい。
自分が直接「この教えは正しい、間違いがない、賢者も称賛している。この教えを実行すると人々が豊かになで幸福になる」とさとったとき、それを受け入れ、実践すればいい」
教祖が言ったから正しい、古い聖典に書かれているから正しいという受け取り方をしてはいけないと説かれているのです。
「賢者も批判している」、「賢者も称賛している」というのは、公論の結果でありましょう。
こうして、その時その時、その場その場で、ひとつひとつ判断してゆくしかないのです。
横田南嶺