心が仏である – 其の二
馬祖道一禅師が、「即心是仏」といって、
「ほかならぬわが心こそが仏であり、それは私たちの見たり聞いたり活動する、そのはたらきに発揮されている」
と説かれたのでした。
そして、そのことを問答によって、気づかせようとされたのでした。
無業(むごう)和尚との問答などは、そのことが実にはっきりとしています。
無業和尚という方は、実に体躯堂堂たる方で、声もまるで鐘のようによく響いたといいます。
そんな無業和尚をご覧になって、馬祖禅師は、
「堂堂たる仏殿だが、しかし、そのなかには仏が無いな」と言われました。
手厳しい言葉です。痛い所を突かれた無業和尚は、
「自分は今まで仏教の学問はほぼ究めてきました。
しかし、禅で説かれる「即心是仏」、心が仏であるという、その意味がまだ分かりません」
と訴えました。
それに対して、馬祖禅師は答えました。
「いままさに、「わかりません」といっているその心、それこそが仏なのだ」
と、これ以上の親切はないくらいの答えです。
ところが無業和尚には、まだ「ピンとこない」のです。
かさねて問いました、
「では、達磨大師が、はるばるインドから伝えられた教えとはどのようなものでしょうか」と問います。
まだ、自らの心を見ずに、外に解決を求めようとされます。
馬祖禅師も、
「そなたも、まことにうるさいことだ。ひとまず帰って出直して来い」と突き放します。
そう言われて仕方なしに、
無業和尚が部屋を出て、一歩外に踏み出すと、馬祖がだしぬけに呼びました、
「大徳!」と。
「大徳」というのは、修行僧への呼びかけです。
呼ばれた無業和尚は、はっと振りかえります。
そこで馬祖禅師はすかさず問いました、
「それは何だ」と。
無業和尚はそこで悟って礼拝しました。
馬祖禅師、「この鈍漢め、今ごろ礼拝などしてどうするか」と言ったのでした。
呼びかけられて、ハッと振り返る、まさにその生きた心、
それこそ仏であって、その他にどこかに仏があるのではないのです。
昨日小欄で書いた、臨済禅師の目覚めでは、黄檗禅師が棒で打って、ほかならぬその心が仏だと示したのですが、ここでは、呼びかけておいて、思わず振り返った、その心こそが仏だと、これ以上外に求める必要は無いと示したのでした。
禅問答というと、『広辞苑』にも「ちぐはぐでわかりにくい問答」と説明されているのですが、実に明確に、「心が仏である」ことを示してくれているのです。
横田南嶺