一日暮らし
意訳してみますと、
「ある人の話に、自分は、『一日暮らし』という工夫をしてから、精神が健やかに、体の調子もよくなったというのです。
どうしてかというと、一日は千年万年の初めであるから、一日よく暮らして勤めを果たせば、その一日は過ぎてゆくというのです。
それを翌日のことをあれこれと気にすると、あるかどうかも分からないことを苦にしてしまって、翌日のことに飲み込まれてしまい、その日のことを怠りがちになってしまいます。
また次の日になっても、その翌日のことを気にしていると、全体に次の日に持ち越すだけで、今日のことが無いようになってしまう、心が疎かになってしまいます。
翌日のことは、命があるかどうかも分からないから、今日を粗末にするというのではありません。
今日一日暮らす、その勤めを励むのです。
どんなに苦しいことがあっても、今日一日の辛抱だと思えば耐えることができます。
逆に、楽しいことがあっても今日一日だと思えば、それにふけることもありません。
子どもが親に十分な孝行ができないのも、長いことのように思うからです。
人生を一日一日だと思えば、決して疎かにすることはないのです。
一日一日と勤めてゆけば、それが気がつくと百年になり千年にもなるのです。
一生のことだと思うから、たいそうなことになってしまいます。
一生とは長いことのように思うかもしれませんんが、あとのことなのか、明日のことなのか、一年二年のあとか、百年千年先のことになるのか、誰も知る人はいないのです。
いつになるか分からない死の訪れる時を区切りに考えるから、一生という概念にだまされてしまうのです。
一番大事なことは、今日の只今の心です。
それをおろそかにして、明日があることはありません。
多くの人は、遠くのことを思いはかっているようで、一番大事なこの今に気がついていないのです」
という内容です。
正受老人は、十三歳に、僧から「あなたには観音様がついている」と言われてそのことを疑問に思い、十六歳で自己本来の観音様に目覚め。十九歳で出家して、至道無難禅師に十数年師事され、三十五歳から飯山の正受庵で過ごされました。
それからは、「正念相続」という、いつも正しい今の一念を失わない真剣な工夫を怠らず勤められ、七十歳になろうかという時になって、ようやくここ五六年来、「正念相続」の真の工夫を獲得したと仰せになっています。
そんな厳しい自己を見つめる修行をされた結果、説かれた一日暮らしの教えですので、平易ですが、深い内容であります。
僧堂の修行を終えて、師家になりたての頃は、
この「どんなに苦しいことがあっても、今日一日の辛抱だと思えば耐えることができる」
というこの言葉をいつも胸に刻んで、一日一日どうにか過ごしてきたことを思い起こしました。
大事なのは、明日を思い患うことではなく、今日只今の心です。
三百年遠諱に出頭しながら、そのようなことを思っていました。
横田南嶺