愚堂国師
それぞれの寺で、住職となり副住職となって、がんばってくれています。
学校でいえば卒業生のようなものです。
それぞれどうしているのかと気になることもあります。
ご自分の生まれ育った寺に帰って、副住職になるなどの場合は、いわば実家に帰ったようなもので、そんなに心配ないのですが、血縁も地縁もない寺にもらわれて入る場合には、いろいろの苦労もあるので、心配になるものであります。
何かの所用で、近くに行った折には、訪ねてあげることがあります。
そんな中で長らく気にかけていたのが、京都の山科の華山寺に入った和尚のことでした。
私と同じ郷里の出身で、花園大学を出て円覚寺の僧堂に来て数年修行して、京都山科のお寺に入ったのでした。
そのお寺というのは、妙心寺の愚堂国師という方がお亡くなりになったところで、そのお墓もある名刹なのであります。
私の道場で修行した程度で、妙心寺派の名刹に入るなど、だいじょうぶなのだろうかと長らく気になっていました。
京都には、花園大学にも勤めているので、よく出掛けるのですが、いつも講義なり講演なり所用を済ませたら、すぐに帰りますので、気になりながら、山科のお寺までうかがうことができずにいました。
それでも、その和尚は私が花園大学で講義をするときには、よく聴講にきてくれていました。
それが、このたびようやく、その山科の華山寺を訪ねることができました。
正受老人の三百年遠諱に出頭すべく上洛して、妙心寺に行く前に、ほんのわずかですが時間をとって、山科の華山寺にうかがい、愚堂国師の塔所にもお参りすることができました。
こぢんまりしたお寺でしたが、きれいなお庭もあり、愚堂国師のお墓の石塔に上に、お木像がお祀りされている開山堂もございます。
やはり名刹の趣がございました。
それから何と盤珪禅師のお墓もあって、お参りさせていただきました。
盤珪禅師が山科の地蔵寺というところにいらっしゃったということは知っていましたが、その寺が無くなって、盤珪禅師のお墓が華山寺に移されたということでした。
愚堂国師は、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)というお名前です。
西暦一五七七年にお生まれで一六六一年にお亡くなりになっています。
美濃国(現在の岐阜県)に生まれ,妙心寺聖沢院の庸山景庸(1559~1626)禅師に師事した後,妙心寺住持を三度勤めた方であります。
庸山禅師のもとで修行した頃には、庸山和尚の手厳しい指導に対して行き詰まってしまい、竹藪に入って蚊の群れに中で坐り抜いたという話は有名です。
そこで、公案について新たに心境を開いたのでした。三十一歳の頃です。
晩年八十三歳の時に、妙心寺開山関山国師の三百年の大遠諱をお勤めになりました。
この愚堂国師に参禅したのが、至道無難禅師であり、至道無難禅師のお弟子が、正受老人であります。そして白隠禅師へと法灯が伝わっているのです。
愚堂国師のお墓にお参りして、そのあと妙心寺の正受老人の三百年大遠諱に参列して、祖師方の有り難い息吹に触れることができました。
また私の道場の卒業生が、立派に愚堂国師のお寺を守ってくださっている姿に接して感無量でありました。
お庭も掃除が行き届いていて、坐禅会、写経会、ヨガの会なども催しているようで、布教にも熱心なのが一層有り難く思いました。
横田南嶺