正受老人三百年遠諱
正受老人こと道鏡慧端禅師は、享保六年(一七二一)十月六日、数え年八十歳でお亡くなりになっています。
今年の十月六日が、お亡くなりになってちょうど二百九十九年経ちます。
仏教では、三百年忌に当たります。
そこで、本日京都の本山妙心寺で、正受老人の三百年遠諱の大法要が営まれるのであります。
入祖堂(にっそどう)という儀式が行われます。
季刊『禅文化』誌に、正受老人の語録について解説したり、また飯山市で行われる正受老人の記念講演にも招かれていることもあって、妙心寺の儀式にも参列すべく上洛しています。
正受老人は、寛永十九年(一六四二)、信州飯山のお生まれです。父は、戦国武将であった真田信之で、飯山藩主松平忠倶の養子として城内で育てられたのでした。
またそのご生涯のほとんどを飯山でお過ごしになられたのでした。
飯山市の主催で、特別展や記念講演が今年の九月に予定されていました。
私が、その講演を務めることになっていたのですが、来年に延期になりました。
ちょうど五十年前の二百五十年遠諱の折には、山田無文老師が記念講演をなされていました。
無文老師には比べるべきものもありませんが、当時の無文老師は、祥福寺の師家であり花園大学の学長でいらっしゃいました。
ただいま私が花園大学の総長なので、今回記念講演を頼まれたのだと思います。
正受老人が十三歳の時に、城中に曹洞宗の禅師が招かれて、諸子に仏名を書いて与えてあげていて、正受老人も、紙を持って皆と同じように仏名をお願いしたのですが、禅師から断られてしまいました。
どうしてかと問うと、「あなたには観音さまがついているので、私が書くことはできない」と言われたのでした。
それからというもの、自己に具わっている観音さまとはどのようなものか、自分なりに参究を続けられ、時には寝食を忘れるほどでありました。
十六歳の時に、二階に上がろうとして、階段の途中に止まったまま、突然熟した果実が落ちるように転落して気絶してしまいました。
皆が大声で呼び、水をかけたりして、ようやく気がついた途端に、大悟したのでした。
十六歳で既に悟りを開いたのでした。
その後十九歳の時に、藩主に随行して江戸におもむき、麻布東北庵の至道無難禅に出合って出家されました。
無難禅師のもとで修行を積み、更に東北地方にも行脚に出て、その後三十五歳で飯山に帰り、正受庵を結んで、あとはお亡くなりになるまで、ただその庵で過ごされました。
専一に正念工夫に打ち込まれたのでした。
若き日の白隠禅師が、正受老人のもとを訪ねて、完膚なきまでに叩かれています。
実に峻厳なる禅僧であり、私は日本の禅僧の中でも最も純粋な生き方をされた方だと尊敬しています。
正受老人は、水戸光圀公からも招かれたほどなのですが、それをお断りになって、大寺に住することはなさらずに、正受庵で作務と坐禅の日々を送られました。
そんな正受老人ですから、大本山妙心寺で法要を営むことをどのように思われているのか、分かりません。
まして況んや私如き凡僧がのこのこ出掛けていっても、お叱りを受けるだけかもしれません。
敢えて、ご叱声をいただく覚悟で、法要に参列するつもりであります。
横田南嶺