拝観券
ゴミと一緒にしてしまうのがもったいなくて、懐に入れてもって帰りました。
しみじみと拝観券を見つめながら、いろいろのことを思い起こしていました。
思えば、十年前の管長になった頃には、境内には拝観券がたくさん落ちていました。
多くの方が、拝観券を捨ててしまうのでした。
何とかならないかと思案しました。
ゴミを捨てないようにと看板を立てるのも無粋であります。
それならば、捨てられないような拝観券を作ったらどうだろうか、皆が持って帰りたくなるようなものにすればいいのではないかと考えたのでした。
そこで、まずカラーにしました。目で見て美しくしました。
それから、いつ来ても同じ拝観券では、面白くないので、季節ごとに、しかも同じ季節でも何種類かの券を作るようにしました。
そして、拝観に来て下さる方は、多くは観光が目的ですので、必ずしも仏教や禅に関心があるわけではありません。
そこで、拝観券の裏側に、短い法話を入れるようにしてみました。
この法話も何種類か作っています。
そこで、円覚寺にお参りすると、きれいな季節の写真が入った拝観券がもらえて、裏には短い法話も、その時々にいただけるとなると、きっと捨てないのではないかと考えたのでした。
これも実現するまでには、試行錯誤あり、反対意見あり、いろいろと苦労したものでした。
しかし、おかげで、この頃は拝観券がゴミとなって境内に散らばっていることは無くなりました。
そんなことを思っていると、有り難いなという気持ちになります。
コロナ禍で、開山忌も例年通りの儀式は出来なく、大幅に縮小して行うので、御開山様には申し訳ないという思いがするが、それでも、この拝観券の法話を読んでいると、有り難いという気持ちになれるのでありました。
そうして拝観券の裏の法話を読んでいると、黒住宗忠の和歌を思い起こしました。
何事も有り難いにて世に住めば、向かう物事みな有り難いなり
という和歌です。
何か特別な有り難いことが起こってから、有り難いと感謝するのではなく、こちらがまず有り難いという心になって、何事にも向かうのです。
そうすると、何が起きても有り難くなるというのです。
それには、宗忠公は「無を養う」ことを説かれています。
私たちは、普段心に我欲を抱いて暮らしています。わがままな欲望を追いかけています。
その我欲のために心は汚されているのだと宗忠公は説きました。
我が心に、我欲を抱かずに、皆もともと無い所から出て来た身であり、心の根本である無を常々養うことを説かれました。
「無を養う」とは面白い表現です。
かつて黒住教本部にお参りした時に「養無」という扁額が掲げられていたのを覚えています。
「無に到ってもなお止めなければ、有り難く嬉しく面白いことの、何に譬えようもないほどの妙味がある」と宗忠公は説いています。
我欲ばかりを追いかげずに、常に何も無い「無」に立ち返り、そこから有り難い、うれしい、楽しいという心で参りたいものだと、開山忌を終えてしみじみ思っています。
横田南嶺