ただ立っているだけ
毎日新聞は、万能川柳がおもしろいのです。
二十八日の朝刊には、
曾孫(ひいまご)の三千グラムの大欠伸
という句が目にとまりました。
小さな赤ん坊が、すくすく育ちながら、天地いっぱいの大欠伸をしているという情景であります。
こちらまで、大きな伸びをしたくなってきます。
「毎日歌壇」も興味深いものです。
二十八日は、こんな一首がありました。
海水温あげてサンマは遠ざけて豪雨・台風呼び寄せており
というのであります。
主語がありませんが、当然お互い、私たち一人一人であります。
語呂がいいので心地よい一首ですが、ハッとさせられ、深く考えさせられます。
同じ日の「毎日俳壇」には、
立ってゐるだけの案山子で終わりけり
の一句が目にとまりました。
選者の評には、「案山子はなにもしなかったというのではなく、その労をねぎらっているのではないか」と書かれていました。
この句をみると、私は唐代の禅僧、保唐寺無住禅師を思い起こします。
無住禅師は、私たちが学んでいる臨済禅のもととなる馬祖の教えに、大きな影響を与えた方です。
この無住禅師という方は、礼拝も懺悔も念誦も許さず、ただ空しく閑坐するのみであったといいます。
「総てなさず、只没(しも)に茫たるのみ」といって、なにもせず、ただぼうっとしているだけだったというのです。
ぼうっとしているようで、同時に活鱍鱍といって、生き生きしているのです。
いつも生き生きとしていて、いつ如何なる時でも、禅でない時がないというのです。
そんな無住禅師が譬えを用いて説法されています。
原文は『歴代法宝記』という漢文の書物ですが、小川隆先生の、分かりやすい現代語訳を参照してみます。『禅思想史講義』(春秋社)から引用させていただきます。
それがしが一つ、例え話をして進ぜよう
とある一人の男が、小高い丘のうえに立っておった。
そこへ、三人の男が連れだって通りかかる。
遠くに人が立っているのを見て、三人は口々に言い出した。
「あのお人は、家畜を見失のうたのであろう」
「いや、連れとはぐれたのだ」
「いや、いや、風にあたって涼んでおるのだ」
こうなると、言い争いになって収拾がつかぬ。
それで近づいて行って、当の本人にたずねてみた。
「家畜を見失われたので?」
「いや」
「では、連れのお方とおはぐれに?」
「べつに」
「なら、風にあたって涼んでおいでで?」
「ちがう」
「はて、そのどれでもないとなると、こんな高いところで、いったい何の為に立っておいでで?」
「只没に立つ――うむ、ただ、立っておるのだ」
というのです。
小川先生の手にかかると、難しい漢文も実に分かりやすい訳となります。本来はこのような生き生きとした会話なのでしょう。
「いかなる意義にも目的にも結びつけられず、「只没(ただ)」そうあること、「只没(ただ)」そうすること、それだけです」と小川先生は解説されています。
この無住禅師は「無念」であることを説きました。「残念無念」の無念ではありません。
小川先生の解説によれば、
「「無念」であることは、実際にはあらゆることを「只没(ただ)」やるのみであるほかありません。……
すべてを「只没(ただ)」やるとき、あらゆる行為はおのずと「活鱍鱍」となり「一切時中総て是れ禅」ということになるのでしょう」ということなのです。
「ただ立っているのだ」
という言葉には、理屈を超えて何か清々しさを感じます。
あれこれと意義や理論を付けたくなるのがお互いですが、「ただ立つ」それでいいのだと思うと爽やかな気持ちになります。
ですから、坐る時には、ただ坐る、ご飯を食べる時にはただ食べる、歩く時にはただ歩くのみ、そんな処にこそ本来の禅が生き生きとしていたのでしょう。
それがどうも作法や何かと煩わしくなってしまいました。
横田南嶺