このままでよい、このままでいけない
その最後の章に、
「その心をどうするかという点においては、究極は、ただ手放しにすることにあるといえます。
言い換えれば、不生の仏心に生きる、不生にして霊明なる仏心のままに生きることです。
あるいは阿弥陀仏にすべてをあずけて、いっさいはからわないことです。そこに極意があるのではないかと思います。」
盤珪禅師が、不生の仏心のままで暮らすと説かれました。なにもはからいはいらない、仏になろうということさえも不要で、仏のままでいればいいと説かれたのでした。
それは期せずして、日本の念仏が、そのままで救われると説いたのと一致する面があります。
「自己を超えたものが、自己のはからいなくして自己をまっとうせしめるように、〈いのち〉を十全に育むように働いているものがある。それが霊性です。
しかも、阿弥陀仏の大悲によって、この身このまま救われている、という感覚や感情に対して、大拙はそれが日本的霊性であると言い表しました。
この日本的霊性が日本人の感じているもっとも深い心だと思います」
大拙先生は、この『日本的霊性』を昭和十九年に出版されています。
恐らく、戦争の終結を予想していた大拙先生が、戦後の日本人の為にと書かれたものかと察します。大切な日本的霊性を自覚してほしいと思われたのではないでしょうか。
更に竹村先生は、道元禅師の正法眼蔵現成公案の次の言葉を引用されています。
「身心に法いまだ参飽せざるには,法すでにたれりとおぼゆ。
法もし身心に充足すれば,ひとかたは,たらずとおぼゆるなり」
という言葉です。
およそ意訳しますと、
「仏法がこの身心に充分になじんでいない時は,かえってもう充分に足りたと思ってしまう。逆に、仏法が身心に充ち足りると、まだ十分ではないと思う」というところでしょう。
竹村先生は、
「法の大悲に触れたならば、「ひとかたはたらず」と思われ、努めようと思わずにいられなくなるというのです」
と解説されています。
盤珪禅師は、不生のままでいいと説かれて、仏になろうとはからうことは造作なこととして斥けられました。
お念仏の教えにしても、このままで救われると説いて、余計なはからいを無用であると説きました。
しかしながら、竹村先生は、
「……修行する必要はないということは、むしろ不生に住す、分別、はからいを手放すという意味があり、実はそれこそが仏になる道、いや仏でおる道だともいえます。
しかも、結局は、この身このままでよいかとわかったら、逆にこのままではいけないと思うようになって、仏の願いに催されて他者と関わっていくことになります。
何もしなくてよいということが、けっして何もしないだけで終わらないところに、宗教の深い世界があるのだと思います」
と示されています。
仏道は、はじめ「このままではいけない」と思って、がんばって修行します。
がんばってがんばった結果、「このままでよい」のだという安心を得ます。
そうすると、今度はまた「このままでいけない」と思って、どこまでも無上菩提を求め、多くの人に尽くしてゆこうという思いがあふれてきます。
そのように思っていたところを、竹村先生の明確な表現によって、より一層確信が持てるようになりました。
横田南嶺