揺れてよい
この本の特徴は、「はじめに」で、著者自身が、コロナ禍において書かれたものであること、「弱さ」とそれに呼応するいくつかの問題をめぐって書かれたものであることと書かれている通りです。
「はじめに」の前の冒頭に、
「わたしは自分の弱さを誇ることにします。
……わたしは、弱っている時こそ、強いからです」
という新約聖書の言葉が書かれています。
そして、最後の「おわりに」では、若松先生の詩が載っています。
一部を紹介しますと
弱くあること
もっと強く
なりなさい
世間は きっと
そう言うでしょう
でも本当に
学ばなくてはならないのは
弱くなること
弱くあることなのです
……
という詩です。
たしかに、世間では強いことの方がいいように思われています。
強い身体を作りましょう。強い心を持ちましょうと言われます。
しかしながら、頑強な体を誇る人が必ずしも長生きとは限りません。
先代の管長の足立大進老師がよく仰せになっていました。
「若い頃に、元気なのを自慢していた者に限って、突然亡くなったり、急に弱ってしまうこともある。
逆に若い頃に身体が弱かった者の方が、弱さを自覚しているので体を大事にして年を取っても元気で、長生きすることもあるのだ」と。
実際に先代の管長も幼少の頃は身体が弱くて、とても長くは生きられないと思われていたらしいのですが、それだけに身体に人一倍気を使われて長生きなされました。
修行時代の仲間でも、お元気そうに思われた方が先にお亡くなりになったりしていました。
弱さを自覚して生きることが大切なことでしょう。
「おそれと向き合う」という章の中に、「揺れてよい」ということが書かれていました。
私たちは、安定することと言えば、微動だにしないことを想像しますが、若松先生はそうではないと指摘されています。
「ただ、今日いう「安定」は、大地に深く根差すようなそれではなく、小さな舟で海に漕ぎ出したときのような、揺れながらだが、どうにか日々を生きている、そういった意味での安定だ」
というのです。
そして「揺れてよい、むしろ、揺れなくてはならないのかもしれない。
揺れないものは、強い刺激があったとき、どこかで折れる危険をはらんでいる。
むしろ私は、揺れないものがよいとする風潮が広まることを危惧している」
と指摘されます。
更に
「からだがこわばるとき、私たちはからだを揺らす。
そうすることで少しほぐれることを知っている。
心がこわばる。
すると、私たちは人と話す。そうすることで固まった心が少し動き出すのを知っている」
というのです。
「揺れてよい」という言葉は強いメッセージだと感じました。
坐禅の姿勢も、微動だにしないように見えますし、私もそのように心がけてきましたが、堀澤祖門大僧正から、坐禅している時にも仙骨が微細に運動しているのだと教わって目から鱗が落ちる思いがしたことがあります。
相田みつを美術館にゆくと、相田みつを先生の「ゆ」という大字が掲げられていることがあります。
私は、あの「ゆ」の字が、なんとも言えず好きであります。
あの「ゆ」の字の前に立っていると、なんとなく身体も心もゆるんでくるような気がします。
あたたかい、お「湯」に浸かったような気持ちになれます。
「ゆ」の字のつく言葉には、そんな意味が多いように思います。
お風呂の「湯」もそうです。
「ゆらぐ」、「ゆれる」、「ゆるむ」、「ゆする」、「ゆっくり」、「ゆったり」、「ゆうゆう」、「ゆうぜん」、「ゆかい」というように、何かのびのびした感じがします。
雷が怖くてしょうがないと訴える女性に、盤珪禅師は、驚いたらいいと答えました。こんな言葉にも、身体がほぐれる気がします。
揺れてよい、揺れていることをむしろ楽しむ気持ちで味わいたいものであります。
身体も心も。
横田南嶺