有り難い手紙
そのいずれものが、先日のオンライン坐禅会に参加して下さった方の御礼でありました。
森信三先生の言葉に
「教育とは流水に文字を書くような果かない業(わざ)である。
だがそれを岸壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ」
というのがございます。
オンライン坐禅会は、私の場合YouTubeで配信していますので、参加してくださっている方がこちらからは全く見えません。
何名くらい参加されているのかも分かりません。
Zoomの機能を使って行っているのであれば、先方の姿や人数が分かりますが、私の場合は何も分からない中でただ独り行っていますので、実に流水に文字を書く以上にはかない作業なのであります。
もし、その様子をそばで誰かが見ていたとしたら、誰もいないところでカメラに向かってしゃべって坐禅してお経を読んで、いったい何をしているのか不審にと思われることでしょう。
そんな思いをしていますので、御礼の言葉などを頂戴するとホッとします。
まずご覧いただいて、ご参加くださった方がいらっしゃるのだと知る事ができます。
特に驚いたのは、お彼岸でしたので読経をしたのですが、お二方ともそのお経が有り難かったというのです。
お仏壇の両親にお経が届いたように思われて、親孝行ができた思いがして有り難かったという感謝の手紙だったのです。
それは、こちらの方が有り難いと感謝します。
そういえば、昭和の時代に、薬師寺の高田好胤和上が、テレビで読経をするということをなさっていたことを思い起こしました。
桂米朝師匠などと一緒になさていました。
テレビからお仏壇のご先祖に読経するというものでした。
賛否両論あったものでした。
高田好胤和上のお話を私はまだ小学生の頃に拝聴しました。
素晴らしいお話で、小学生ながら感動しました。
ちょうどその頃は、薬師寺に金堂ができあがって、西塔再建の写経勧進をなさっておられ、小学生の私はお話に感銘を受けて、当時のわずかの小遣いをためては、千円になると、薬師寺に送って写経をしていたことを思い出しました。
薬師寺に行って写経をしたことも何度かございます。
今も薬師寺の西塔を思うと、私の写経があの再建に一助になっているのだと思うのであります。
今では写経など、どこのお寺でも当たり前のように行っていますが、写経がこんなに広まったのは、ひとえに高田好胤和上のおかげです。
はじめ薬師寺の薬師三尊をお祀りする金堂を再建する為に、敢えて篤志家の寄進を断られ、多くの方に写経をしてもらって、広くご縁を結んでもらい、金堂を再建しようと志されたのでした。
金堂再建のために、百萬巻の写経勧進を発願されたのでした。
その始めた当時は、誰も皆無理だと思われたでしょう。途轍もない膨大な数です。
しかし、和上お一人の熱意で、百萬巻を達成し、金堂を再建されたのでした。
そして、まだ当時の薬師寺には東塔しか無かったので、対になる西塔の再建を発願されたのでした。
私がご縁をいただいたのはその頃なのでした。
情熱あふれるお話で、心から感動したのでした。
高田好胤和上のお話を聴いて感銘を受けたことは今も鮮明に覚えているのですが、和上は毀誉褒貶それぞれございました。
よくテレビにも出られていたので、「タレント坊主」などと言う方もいたものです。
私も小学生の頃に感動したのですが、禅宗の僧侶となって修行を始めて、しばらくは、高田好胤和上の生き方を快く思わないようになっていました。
禅の修行をしていた為なのか、俗僧のように感じられていたのでした。
しかしながら、禅の修行も長年勤めてきて、本山の管長になって、この頃は特に「やはり高田好胤和上はお偉いな」とつくづくしみじみ思うようになりました。
高田好胤和上は、自分の身にどんな批判を受けようとも、人々の為にと思う慈悲の心が強く深かったと思うのであります。
昭和の時代に批判的に見られていた、テレビでの読経でしたが、令和の時代のコロナ禍にあって、ネットでの読経となって、それが感謝されるとは、不思議なご縁を思います。
何はともあれ、たといお一人であれ、何かのお力になれれば、それでじゅうぶんなのであります。
それが、お二人から感謝のお手紙をいただくと冥加に余る思いであります。
横田南嶺