目に足に感謝を
その中に、多発性硬化症という病で亡くなる少女の話があります。
多発性硬化症というのは視神経など、からだの広範囲にわたっていくつもの病変が起こって、体を動かせなくなったり、目が見えなくなる難病だそうです。
だんだんと身体が動かなくなっていくのですから、不安と恐怖に襲われることと想像します。
残された詩に「ありがとう」という題の詩があって、感動しました。
一部を紹介します。
「ありがとう」
私、決めていることがあるの。
この目が、ものを映さなくなったら目に
そして、この足が動かなくなったら、足に、
「ありがとう」って言おうって決めているの。
今まで、見えにくい目が
一生懸命、見よう見ようとしてくれて、
私を喜ばせてくれたんだもん。
いっぱい、いろんなもの、素敵なものを見せてくれた。
夜の道も、暗いのにがんばってくれた。
足もそう、私のために信じられないほど歩いてくれた。
……
という詩であります。
だんだん見えなくなってくる不安、
歩けなくなってくる恐れ、
幼い子どもには耐えがたいものであろうと思います。
大のおとなでも、取り乱したり、自暴自棄になりかねないでしょう。
なぜ、自分がこんな目に遭うのかと、運命を恨んだりもすることでしょう。
そうではなくて、今まで見ようとしてくれたことに「ありがとう」と感謝するというのです。
こんな心こそが、「仏心」というのでしょう。
坂村真民先生にも、自分を生かしてくれている五臓六腑に感謝するという意味の詩があります。
業病ゆえに
わたしの一番身近にいて
わたしを一番助けてくれてきたのは
私の五臓六腑である
そう気付いてから
わたしは毎晩
仏さまを拝んだあと
五臓六腑さま
この弱いわたしを
よくぞ今日まで
延命させてくれました
更に大願成就のため
御加護を切念しますと
祈願しだした
それからというもの
悩み苦しんできた業病にも
感謝するようになった
(『坂村真民全詩集』第二巻より)
人は、誰しも必ず死を迎えます。これは避けられません。
最後には、目も見えなくなり、足で歩くこともできなくなってゆくのです。
そのときに、この少女のように、感謝の心でいたいものです。
それには、一日一日終わるごとに、目に感謝を、足に感謝をして休む習慣を付けてゆこうと思いました。
今日一日、よくいろんなものを見てくれてありがとう、
今日一日、よく歩いてくれてありがとうと。
真民先生も、足の裏を感謝して拝んでおられたのでした。
足のうらを洗うて
一日じゅう
きたないところと接していた
足のうらを洗うて
きょうの一日を終わる
不幸の便りもこず
家族も無事で
ありがとうございました
このうえはどうか
世界中が平和になって
殺しあうことのないよう
人間でありながら
犬猫のように殺されることのないよう
そういう世のなかになるようにと乞い
しずかにひとときを坐る
(『坂村真民全詩集』第二巻より)
横田南嶺