初心
「初心忘るるべからず」という有名な一句があります。
物事を始めたときの初々しい気持ちを忘れないようにという意味で用いられています。
坂村真民先生にも
初々しさ
初咲の花の初々しさ
この一番大切なものを
失ってしまった
わが心の悲しさ
年々歳々花咲き
年々歳々嘆きを重ね
今年も初咲きの
花に見入る
という詩があります。
しかし、
「世阿弥の言う「初心」とは、物事を始めた時の初々しい気持ちという意味ではなく、己の技量の未熟さであり、失敗を指します。
つまり世阿弥は、自分の未熟の自覚を忘れてそこに安住してしまえば、もはや芸は一歩も上達しなくなると、慢心を強く戒めているのです」
というのです。
月刊『致知』十月号にある、二十六世観世宗家の観世清和さんの言葉です。
そういう深い意味があったのかと、私も初めて学ぶことができました。
この言葉について、修行僧たちと学んでいたときに、ある修行僧が、今年の夏初めて棚経(お盆の時期に、檀家一軒一軒をまわって読経すること)にまわった際に、ある家で、読経した時に、孫よりも若いであろう未熟な自分に、深々とお辞儀をしてくれて恐縮したという話をしていました。
「自分のまだ疎いお経にどれほどの功徳があるのか、自分でも分からないけれども、最大限の心を込めて読経させていただいた」というのです。
そして、その修行僧は、
「この日感じた申し訳なさ、恐れ多いという感情がなくなり、堂堂と胸を張れる和尚さんにいつかはならなければと感じた」
というのでした。
こういう気持ちを持つことも大切でありますが、しかし、この「申し訳なさ、恐れ多い」という気持ちを失ってはならないと話をしました。
先代の管長足立大進老師が、ある日、ふとしみじみと私に対して、
「自分は、今もお経をあげた後に、これでいいのだろうかと思うのだ」と語られてことがありました。
すでに本山の管長である老師が、いったい何を言われるのかと思いましたが、管長になられても、そういう気持ちを失わずに読経されていたということが実は尊いのだと思いました。
『遺教経』には、
「慙恥(ざんち)の服は諸の荘厳に於いて最も第一と為す」
という一語があります。
心に恥ずかしいと思う、申し訳ないと思う心こそが、もっとも美しい荘厳なのだという意味です。
己の未熟さ、失敗を忘れぬように精進したいと思います。
横田南嶺