落ち葉に思う
毎月拝読するのを楽しみにしています。
詩を書かれる方というのは、独自の感性を持っておられて、学ばされるところが多いものです。
今月も「木陰にて」という題の詩の一節に心打たれました。
一部を引用させていただきます。
「ふと目を留めた
木の足元に
落ち葉の重なり
ああこの落ち葉たちは
コロナ禍の春と夏
共に不安になり
共に乗り切ってきた友であった
酷暑の日差しに焦がされて
今土に還ろうとしているのか
桜の葉たちよ
お眠りなさい
がんばってくれてありがとう
土に還って
また木の命となって
よみがえってきてほしい」
という一節です。
この詩にあるように、今は桜の葉がよく落ちてくる季節です。
私のように禅寺に住んでいると、落ち葉は掃除をする対象でしかありません。
落ち葉を見る度に、ああ掃かないといけないとしか思えないのであります。
桜の葉の落ちたのを見て、その一枚の葉と思いを共にして、一遍の美しい詩を作るのと、「ああ、また落ち葉だ」と思って、ただ掃き掃除をするだけなのと、大きな差であります。
禅寺というのは、一枚も葉っぱが落ちていないのがいいと思われています。
ですから、たとえ嵐や台風の翌る日であっても、境内には葉一枚も落ちていないように、いつも頑張って掃除をしています。
台風一過、寺に来たら、きれいに掃除されて葉っぱが落ちていないというのが、禅寺の美であります。
しかし、時には、落ち葉の積もったふかふかの大地を歩いたりすると、葉っぱが落ちているのもそれなりの風情があるのではないかと思うこともあります。
やはり、この詩にもありますように、落ち葉がやがて土になって、また新しい木の命になるのが自然のように思います。
落ち葉も、たき火でもして燃やすと、それもまた風情でありましょう。
しかしながら、この頃は、落ち葉も境内で燃やすことができなくなってしまって、ゴミ袋に入れて出さざるを得ない御時勢であります。
人が煩悩と称するものでも同じようなものかなと思います。
特に坐禅の修行というと、煩悩を断ちきろう、一点の雑念妄想もない心境を目指そうとします。
しかし、さまざまな煩悩なるものも、もとをただせば、それぞれかけがえのない思い出だったりするのでしょう。
これも自然の一部と受けとめて、新たな命へとつなげてゆくこともできるかと思います。
少々葉っぱが落ちていても、それも風流だと受けとめるような心境になりたいと思うのですが、どうもやはり長年の禅寺の習慣で、素晴らしい詩を読んで感動しながらも、翌朝には、竹箒をもって掃き掃除をしている自分がいます。
なかなか多年の習慣を改めるのは難しいものであります。
これもまたとらわれという煩悩のひとつなのか。
そうであれば、そんな煩悩を抱えて掃除をしているのもまた風流なのかもしれません。
横田南嶺