仏光ー仏国
東山とは、今の栃木県那須にある雲巌寺のことです。
那須の雲巌寺から高峰顕日が訪ねてくれて、そのお礼の説法なのです。
高峰顕日は、「仏国国師」という国師号もいただいています。
一二四一年のお生まれで、一三一六年にお亡くなりになっています。
仏光国師が、一二二六年のお生まれですので、一五歳お若い方であります。
今読んでいるところは、弘安六年頃の説法ですから、仏光国師が五七歳、仏国国師が四二歳であります。
仏国国師は、後嵯峨天皇の皇子であるとも言われています。
東福寺の圓爾のもとで出家して修行を始められ、更に建長寺に来て兀庵に参禅しています。
しかし、早くに那須に地に隠棲されてしまい、そこに僧が集まって雲巌寺になったのです。
無学祖元禅師が、来朝されたのを聞いて、鎌倉に来て問答を交わして、無学祖元禅師からその悟境を認められ印可を受けています。
お二人のやりとりは、筆談で行われていたようで、その記録が今に伝わっています。
ご自身よりも十五歳若い顕日のことを、日長老と呼んで敬意を表しておられるところからも、仏光国師がいかに仏国国師にことを大切に思っていたかがうかがわれます。
仏光国師という方は、五十三歳で日本にお越しになっています。
当時の五十三歳というと、かなりの高齢であります。
そのまま中国にいれば、南宋の禅界の重鎮として安泰であったと思われます。
しかし、元が攻めてきて、南宋はやがて滅亡していまうという、歴史の荒波に巻き込まれて、言葉も通じない異境の地へと来られました。
随分とご苦労されたことと思います。
お亡くなりになる前に、ご自身日本に来てからの思いを「受苦八年」と仰せになっているほどであります。
しかしながら、北条時宗公と出会い、意気投合され、更に高峰顕日の様なすぐれた弟子に恵まれたことは、大きな喜びであったろうと察します。
那須の地から、顕日が訪ねてくれたことは、うれしかったのだろうと思います。
法語の最後に
瞎驢(かつろ)滅却す、正法眼(しょうぼうげん)。
此の一天の明月をいかんせん。
という一句を記されています。
これは臨済禅師の末期の話で、臨済禅師がいよいよお亡くなりになる前に、弟子たちに自分の教えを絶やすなと言い残されました。
弟子の筆頭であった三聖が、どうして禅師の教えを絶やすようなことがありましょうかと伝えます。
では、もし誰かに臨済の教えはどのようなものであったかと問われたら、何と答えるのかと詰問すると、三聖は喝一喝しました。
三聖は、どうぞご安心くださいと言わんばかりの思いだったと察しますが、臨済は、ああ自分の教えは、この何も分からぬ愚か者のところで滅びると言って亡くなったのでした。
古来伝統の解釈では、この臨済の言葉は、内心では大いに三聖を褒め称えているのだとされています。
いろんな議論のある問答なのです。
臨済の教えは、愚かな弟子のところで滅したらしいが、そんなことはどうであれ、この天に輝く明月は誰もどうともしようがないと仏光国師は仰せになっているのです。
一天の明月は、高峰顕日を指しています。
高峰顕日がいてくれれば、日本において臨済の教えも安泰だという心でありましょう。
禅の語録において、これほどまで自分の弟子を称賛することは稀であります。
表面は褒めて内心はけなすというものでもないと思います。心から褒め称えているのです。素晴らしい師弟関係であります。
その通り、高峰顕日のもとから夢窓国師が出られて、室町時代にかけ仏光国師の教えは日本の禅の中心となっていったのでした。
仏光国師のお師匠さんが、南宋の仏鑑禅師でした。
仏鑑ー仏光ー仏国と、それぞれ、中国の禅僧、中国から日本に橋渡しをされた禅僧、日本の禅僧へと教えが脈々と伝わって今日に到っています。
横田南嶺