怨みなし
ある日の事、いつも親しい信者さんの家に良寛さんはとどまっていました。
そのときに、「狂僧」と書かれていますが、少々精神の不安定な僧が、やってきました。田植えの頃で、どろんこだったようです。
この僧は、誇大妄想気味なところがあって、自分こそ一宗を開く人物だと思って、他の僧達を軽蔑していたのでした。
特に、良寛さんが多くの方に慕われていることを快く思っていませんでした。
そんな僧が、たまさか良寛さんが泊まっていた家に入ってきました。
ちょうどそこに良寛さんがいたものですから、腹を立てて、濡れた帯で良寛さんを打ち据えようとしました。
良寛さんは、あわてず、騒がず、よけようともせずに泰然としていました。
家の者達があわてて、この僧の暴挙を止めて、良寛さんを別の部屋に案内して、この僧には帰ってもらいました。
夕方になって、良寛さんがおいとましようとして、外に出ようとしました。
折から雨が降ってきました。
良寛さんは一言いいました。
「さっき来ていたお坊さんは、雨具をもっていただろうか」と。
そう言って、それ以外には何も仰らなかったというのです。
何事もなかったかのように、かえって自分に乱暴しようとした僧のことを雨に濡れはしないだろうかと心配しているのです。
そして「余事を言わず」というところが素晴らしい。
良寛さんには、起き上がり小法師を詠った漢詩があります。
人の擲(なげう)つに任せ、人の笑うに任す
更に一物の心地に当たる無し。
語を寄す、人生若(も)し君に似ば
能(よ)く世間に游ぶに何事か有らん。
というものです。
意訳すると、
人に投げられても投げられたまま、笑われても笑われたままだ。
それに対して心に何も思いを抱かない。
もし人生この起上がり小法師のような生き方ができるならば、この世を暮らすのに何の苦労もないであろう。
というのです。
起上がり小法師は、転がされようと、笑いものにされようと、何ら気にかけることもなく、また平然と起き上がります。
雨の日の良寛さんの逸話は、そんな起き上がり小法師の姿にも通じると思います。
耐えるといっても、歯を食いしばってがまんするというのではなく、何事もなかったかのように平然として受け流すこころが大事です。
怨まないように努力するのではなく、怨みなしの心境です。あやかりたいものです。
横田南嶺