生命は説くべからず
毎月講師を招いて勉強会をして、その講演録を載せて送ってくれています。
さらにいつも手書きの葉書を入れてくれています。
親切な方ですし、よく毎月これだけのことをなさるなと感心しています。
今月の講演録には、コロナ禍における学校のあり方について書かれていました。
「カリキュラム・マネジメント」という言葉がありました。
これは、「今までやってきた学校のあり方をもう一度見直して、本当に意味があるものなのかどうかを考えて再構築する」というものだそうです。
「それほど効果や必要性がない仕事を思い込みでやっていることはないですか」と考えるというのです。
長年の習慣だといっても思い込みであったりすることがあるのでしょう。
我々の世界でも伝統だ、などと言いながら、意味のないことをただ思い込みでやっていることも少なくないように思います。
反省すべきであります。
それから、この『虹天』には、毎月新井奥邃先生の言葉を紹介してくれています。
私も新井奥邃先生の『聖言』を寺田一清先生から頂戴しています。
新井奥邃先生の言葉というのは、実に深いものなのです。
森信三先生も新井奥邃先生の影響を大きく受けておられます。
今月の『虹天』に紹介されていたのが、
「夫れ生命は知るべくして説くべからず。
纔に之れを説けば真と違ふ。
又生は感ずべくして知るべからず。
之れを期するは私智なり。無我と反す」
という言葉です。
田中隆裕先生の訳によれば、
「そもそも生命というものは知るべきものであって、人に説くべきではない。
わずかであってもこれを説くならば真理から離れていくものである。
また生は感じるべきものであり、頭で理解しようとしてはならない。
頭で理解しようとするのは、私欲があるからである。
これは無我と反することである」
というものです。
これは実にその通り、感服するばかりです。
頭で理解しようとすること自体が、私欲が混じっているのです。
自分の都合の良いように解釈して、分かって気になっているだけなのです。
無我と反するということは、真理から遠くなるということです。
わずかに説けば、真理から離れるとは実に至言です。
説けば説くほど遠ざかります。
というわけで、本日これ以上説くことはやめにします。
横田南嶺