不覚
『広辞苑』には「不覚を取る」として、「油断や不注意で、思わぬ恥をかいたり失敗したりする」ことと説明されいます。
更に「不覚」とは、『広辞苑』によると
①精神がまともでないこと。正体もないこと。
②思慮・分別のしっかりしていないこと。
③思わず知らずすること。
④不注意や油断によって失敗すること。
⑤覚悟のできていないこと。臆病なこと。
といった意味が載っています。
「不覚」は仏教の用語でもあります。さすがに『広辞苑』には、仏教語としての意味は載っていません。
『大乗起信論』には「本覚」という考えが示されています。
これは大乗仏教の大切な教えであります。日本の仏教には大きな影響を与えた教えでもあります。
平たく言いますと、「本覚」は「本来覚っている」ということです。本来仏の心が具わっていることです。仏の心を「覚性(かくしょう)」と言ったりします。
白隠禅師の「衆生本来仏なり」というところです。
しかし、私たちの現状は、煩悩に覆われ、妄念にとらわれている状態なのです。これが「不覚」です。
本来の仏の心に気がついていない、目覚めていない状態なのです。
それで、発心して修行して本来の仏の心に目覚めることが大切になります。始めて仏の心に目覚めるので、「始覚」と言います。
この「不覚」とはどういう状態なのか、どのようにして「不覚」になってしまったのか、起信論では丁寧に説かれています。
「不覚」の一番根本は無明なのです。何も分かっていないのです。真理が何か見えていないのです。
なにも分からないところに、先ず自分と外の世界とを分けて考えます。
見るものと見られるものとが分かれてきます。
そして、見たものに対して、好き嫌い、えり好みを起こします。自分にとって都合のよいものをよいものだとして、都合が悪いとよくないと区別します。
更にその区別を持ち続けるようになります。好き嫌いなどいうのは、もともとは一時に感情だけです。湧いては消えるだけなのですが、ずっと思い続けてしまいます。
そうしますと、好きなものに対して執着が起きるようになります。苦しみを避け楽を取ろうとします。都合のよいものを取り入れ、都合の悪いものを斥けようとします。
更には、自分の気に入ったものに対して、名称を付けます。名前を付けて実態のあるものだと認めてしまいます。言葉を用いてしっかりと自分のものにしようとするのです。
そして、更に深く執着して、好きなものを自分のものにしようとします。嫌いなもの都合の悪いものは排斥しようとします。このようにして、「業」を作ります。
そうしますと、自ら作り出した「業」に自らが縛られて苦しむことになります。
このようにして苦しみを繰り返すのです。
これが「不覚」の様子なのです。
このように迷い苦しみが作り出されるのだと気がつくことが大切であります。
単に迷いがよくないというのでは解決にはなりません。よくその仕組みを学ぶことなのです。
そうしないと、せっかく修行したり、仏教を学んでいても、思わぬことで「不覚を取ってしまう」ことになりかねません。
横田南嶺