朝比奈宗源老師のご命日
思えば、中学、高校の頃、私はこの朝比奈宗源老師のご著書を拝読して、この禅の道に間違いがないと信じて今日に到っているのであります。
朝比奈老師は、四歳で母を亡くされ、七歳で父を亡くされました。死んだ両親がどこにいったのか、道を求めて出家されて、坐禅修行し、それを明らかにされたのでした。
私は、この死の問題をずっと考えていましたので、朝比奈老師の本を読んでこれこそ自分にとってふさわしい教えだと確信したのでした。
朝比奈老師は、その自らの体験を私たちにも分かるように平易に説いてくださっていました。
朝比奈老師の『仏心』には、ご自身が修行した得た悟りの世界を次のように説いてくれています。
「私は近年誰にもわかりやすく、仏心の信心を説いております。
人は仏心の心に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引きとるので、その場その場が仏心の真っ只中であります。
人はその生を超え死を超え、迷いをはなれ、垢れをはなれた仏心の中にいるのだという、人間の尊いことを知らないために、外に向かって神を求め仏を求めて苦しみ、死んだ後のことまで思い悩むのですが、この信心に徹することができたら、立ちどころに一切解消であります。
私の上でいえば、私の父も母も死後は、釈尊も達磨も、同じく仏心の世界、永遠に静かな、永遠に平和な涅槃の世界にいられるのであって、修行した人も修行しない人も、その場に隔てはないのであります。
これは私が少年の時、両親の死後どうなったであろうという問題が縁となってついに僧侶となり、禅を中心として修行し、また仏教諸宗について研究し、六十余歳の今日になってたどりついた結論であります」
と実に明快に説いてくださっています。
仏心の信心について味わって朝比奈老師のご恩に報いたいと思います。
「仏心はこうした絶対なもので、私どもは、仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引きとるのでありまして、仏心からはずれて生きることも、仏心のほかに出ることも、できないのであります。
たとえれば、私どもは仏心という広い心の海に浮かぶのようなもので、私どもが生まれたからといって仏心の海水が一滴ふえるのでも、死んだからといって、仏心の海水が一滴へるのでもないのです。
私どもも仏心の一滴であって、一滴ずつの水をはなれて大海がないように、私どものほかに仏心があるのではありません。
私どもの幻のようにはかなく見える生命も、ただちに仏心の永劫不変の大生命なのであります。
どなたもご承知のアミダ如来は、かざりのない生命と、かぎりのない光明の意味、大日如来は、どこにも、いつでもましますという意味の仏号で、いずれもこの仏心を象徴したものにほかなりません。
アミダ如来の光明が十方世界をあまねく照らし、その中の衆生を救わずにはおかないという誓いも、仏心のほかには大宇宙の中に、蟻の鬚一本もないという禅者の見処を、アミダ如来という人格をとおして説かれたものであります。
こうした仏心の偉大さを仰ぐ信心は、結論として、すべての人はもとから仏であるという断定にみちびきます。
多くの宗教は、この神を信じなくては救われないといい、仏教のある派においても、この仏を信じなくては、この経を信じなくては救われない、成仏できないと説きますが、仏心の信心からすれば、人間は特定の神や仏や経典を信じる以前、いな、そうした神や仏や経典の出現以前に、すでに成仏しているのであります」
仏心を確かめるのが坐禅です。仏心を信じるのが信心です。坐禅も信心もひとつのものであります。
和歌山県の片田舎から遠く仰ぎ見るような思いでこの『仏心』を拝読していましたが、この頃はこの円覚寺にあって、朝比奈老師のご命日の導師を勤めております。奇しき因縁であります。感謝。
横田南嶺