老いるということ
今週は「小噺リクエスト」という題でした。
海原先生は、かなり本格的にジャズをなさっているようです。
新型コロナウイルス感染拡大の為に、ライブもできにくい状況になって、ほぼ無観客に近いライブを配信していらっしゃるそうです。
それが「ジャズと小噺の夕べ」というプロジェクトとか。
「音楽だけではなく、心がほっとしたり、視点をかえるヒントになったりする話をおりまぜ、音楽と医学を融合させようとする試みである。
悩んだ時や気持ちが落ち込んだ時、ものの見方をかえていくことはストレスを乗り切るのに大切な要素である」
というのです。
小噺のリクエストを募ったところ、「老いについて」というのがあったそうです。
老いをどうとらえるかです。
海原先生は、「老いとは年を重ねることだとおもっている方が多いのでは」と疑問を投げかけます。
しかし、十歳の小学生が大学生になったとしても。「老いた」とは言いません。
これは「成長した」というのでしょう。
二十歳の学生が、三十歳になったら、これは「経験を積んだ」と表現されるのでしょう。
ですから、年を重ねることは、そのまま老いることではないというのです。
そこで海原先生の解釈では、
「成長も経験も積むことがなくなったら、老いたということであり、
成長をし、経験を積んでいる間は、老いてはいないのだ」
ということなのです。
更に
「生理学的には老化しても、心は成長し続けることができる」
というのです。
最後に
「初めてのことにチャレンジして新しく出合うものごとを避けるのではなく、受け入れ、工夫し、乗り越えようとする心」
が大切であり、この心を持っていれば、老いることはないのだと書かれていました。
これには、我が意を得たりの思いであります。
共感なさる方も多いことでしょう。
こんな時期でも何か新しいことに挑戦することはできるはずであります。
何かできることはないかと探したいものであります。
私などは、三十代の頃から「老師」と呼ばれ、愕然としたものですが、これからは益々若返る様に努力しようと思うのであります。
横田南嶺