御巣鷹の祈り
書き出しが、
「墓標に刻まれた年齢を目にすると、どうしても「35」の数字を足してしまう」
という一文でした。
「九歳の少年は四十四歳の働き盛り。二十七歳と二十六歳の夫婦は還暦を過ぎ、第二の人生を歩み出したところか。三十九歳だった会社員は孫の遊び相手をしているかもしれない」
と続きます。
「日航ジャンボ機が1985年、御巣鷹の尾根に墜落した。五百二十人の命が奪われた未曾有の航空事故から、十二日で三十五年を迎えた」
というのであります。
毎年のことながら、この時期になると、あの事故を思い起こします。
私は、まだ学生であり、白山の龍雲院で僧になったばかりでした。
暑い暑い夏に、白山の龍雲院でもこの事故で亡くなった方の葬儀が行われました。
その方の娘さんが毎日新聞に十三日の朝刊に載っていました。
「事故原因 納得できぬ」「日航事故墜落三十五年 遺族晴れぬ心」という見出しでした。
私は、三年前の三十三回忌の法要に赴いて、思いのたけをうかがったことを思い出します。
とても筆舌に尽くせるものではないのです。
三十五年前、白山の龍雲院で葬儀が行われたのですが、その方は龍雲院の檀家ではありませんでした。
五百名を越える葬儀を一度にするので、縁をたどって依頼されたものでした。
亡くなったのは大企業の専務さんであり、現役でしたので、大勢の方がお参りになっていました。
ご家族の悲しみ、あまりの急なこと故にその狼狽振りは、今も思い出されます。
酷暑というべき中、葬儀が行われ、導師の小池心叟老師は、引導の最後に、
「維摩、口を開くに懶し、枝上一蝉吟」
の一句を捧げ、渾身の一喝を吐かれました。
万雷の同時に落ちるかの如き迫力でした。
葬儀の法話などは、一切なさらぬ老師でしたが、
遺族のやりきれぬ思い、悲しみ、悔しさ、あふれんばかりの思いをすべて受け入れて、
それらをすべてひっくるめて一喝のもとに断ち切ったという思いがしました。
百千の説法にまさる一喝でありました。
暑い日射しと蝉の声と、老師の大喝が今もありありと思い起こされるのです。
それ以来、心叟老師は、ご遺族の方の悲しみに実に真摯に向き合われていました。
ご遺族もまた老師に対して、あれこれ悩みを相談されていました。
私はいつもそばでお茶を入れていました。
ご遺族は、心叟老師を深く信頼されて、とうとう龍雲院に墓地を求められて、お亡くなりになったご主人を龍雲院境内に納骨されました。
お墓参りのたびごとに、老師はご遺族を大切におもてなしされて、その話を聞いておられました。
あれから三十三回忌を迎えた時には私が住職として法要を勤めました。
もう今年は三十五年経つのであります。
当時二十一歳の小僧だった学生が、五十六歳の円覚寺派管長となりました。
ご遺族の悲しみは三十五年消えるはずもないのであります。
記事を書かれた記者は、あらかじめ御巣鷹に登られたそうです。
尾根にたどりついて、遺族が記した言葉が目に入ったと書かれていました。
「あなた やってきましたよ きこえますか 見えますか あなたと話がしたい あなた 言いたいことは」
横田南嶺