小さいのでよい
玄峰老師は、人間や動物のみでなく、植物でも、無駄に枝を切ってはいけないとやかましく注意されたそうです。
玄峰老師の頃の龍沢寺では、本堂でもお墓でも、七、八寸の枝を一本ずつ供える事になっていたそうです。
本堂やお墓や老師のお部屋の床に、大きな枝や花を挿すと叱られたとのことです。
玄峰老師のお言葉に、
「大きな生木を切って供えても、仏さまや開山さまは悦びはしない。
しかし、「礼は幣帛を以てせざれば現れず」(如何に尊敬していても、それを態度に現さなければ相手に通じない-孔子の言葉)
ということがあるように、何も供えないわけにはゆかないから、
心をこめて小さな枝を一本供えて置けばよいのだ」
と書かれていました。
それで、玄峰老師のお部屋にはほとんど花や木が生けてあったことはなかったそうです。
時たま生けてあったとしても、それは修行僧が通りすがりに折れた枝を拾ってくるか、何かの廃物利用くらいだったそうです。
老師方には共通するところがあるのか、
明治の高僧と讃えられた天龍寺の峩山老師にも似たような話があります。
『峩山側面集』にある話です。
峩山老師のもとで、ある修行僧が、仏さまにお供えするのに、花木のやや大きなものを折って供えようとしました。
峩山老師はご覧になって言われました。
「小さいのでよい。私の所には外に咲いている花が見えぬような仏はおらぬ」と。
峩山老師らしい痛快な一言です。
庭に咲いている花を仏さまが見えないはずがないというのです。
私などもこんな話の影響を受けてか、お客様が見える時には、お花を生けるようにしますが、普段は花のない枝を挿しておくだけなのです。
禅語に「仏に献ずるに香の多きを仮らず」とあります。
お香も心を込めて小さな一片をお供えすればよいというのです。
普段は、お線香も半分に折ってお供えしています。
今日はお盆、お花の大きい小さい、お供えの多い少ないを気にするのではなく、心をこめてお供えしたいものです。
横田南嶺