こだま通信
毎月拝読するのを楽しみにしています。
今月も、私の日曜説教の内容をまとめてくださっていました。
葉書の裏面のしかも上半分という小さなスペースに、小一時間の話を凝縮して書くのですから、たいへんなことです。
いつもながら、大切なところをまとめてくださる、その文章力に感服します。
鈴木大拙先生が、幼少の頃から不遇な境遇にありながら、「理屈ではどうにもならないもの、分別理性を超越した何か」を分かりたい一心で、円覚寺の今北洪川老師のもとに参禅されました。
分かりたい一心というのが、道を求める心、菩提心であります。
今北洪川老師がお亡くなりになって、そのあとも引き続き釈宗演老師に参禅して、アメリカの渡る前の年に、
「臘八摂心中のある晩、参禅を終わって山門を降ってくるとき、
月明かりの中の松の巨木と自己との区別をまったく忘じ尽くした、
「自他不二」の、天地と一体の自己を体得したのである」(『世界の禅者-鈴木大拙の生涯-』より)
という体験をされました。
松と私、植物と動物という差別、区別を越えて一体となった世界を体得されたのでした。
これが無分別の世界です。
更にアメリカに渡ってその体験を深められました。
「アメリカへ行ってラサールで何かを考えていた時に、〈ひじ、外に曲がらず〉という一句を見て、ふっと何か分かったような気がした。
うん、これで分かるわい。
なあるほど、至極あたりまえのことなんだな。なんの造作もないことなんだ、そうだ、ひじは曲がらんでもよいわけだ、不自由(必然)が自由なんだと悟った」
というのです。
無分別の世界は、現実から離れて超越したところにあるのではなくて、もっとも身近なところに、現実の差別の世界にありありと現れていることに気づかれました。
そこから、今度は、更に西田幾多郎宛に手紙に
「予は近頃、衆生無辺誓願度の旨を少しく味わい得るように思う。
大乗仏教がこの一句を四誓願の劈頭にかかげたるは、直に人類生存の究竟目的を示す。
げに無辺の衆生の救うべきなくば、この一生、何の半文銭にか値いすとせん」
という、この無分別の世界を多くに人に知らせて、人の苦しみを救いたいという大きな願いに生きるようになられました。
「分かりたい一心」から「伝えたい一心」へと転換してゆかれました。
これを生涯九十五歳でお亡くなりになるまで貫かれたのです。
こだま通信の最後には、
「他の為に自分の労を惜しまずに、手足を動かしていると、自分の事が自然に気にかからなくなる」という一言を引用してくれています。
この葉書の下段には、今まで続けていた地元の小学校のトイレ掃除が、また再開できたと書かれていました。
他の為に自分の労を惜しまずに、手足を動かす実践をなされているのです。
「今の状況に不安を抱えながら、学校生活を続けている子供達を思うと、便器を磨く手にも力が入ります」」
と書かれています。
そして最後には、
「当たり前と思っていた「今この時」が貴重なかけがえのない大切な時間なのです」
と結ばれています。
葉書の表の住処の下にもびっしり私宛の言葉が書かれていました。
侍者日記の
「迷いが取り除かれて悟りが現れるのではなくて、すでにこの迷いの暮らしが、そのまま悟りに裏打ちされているのです」
という言葉に救われましたと書いてくださっていました。
こんな一言にも、毎日書かせてもらってよかったと思わせてくれるものがあります。
厳しい暑さが続きますが、一枚の葉書に清凉をいただくことができました。
葉書の力は大きいものです。
横田南嶺