裏打ち
仏道を学ぶ上で、大切なことが分かりやすいたとえで示してくださっています。
そのひとつに「着物の裏打ち」というたとえがあります。
「着物がほころびると、昔はきれを裏から当てて、また縫い合わせていましたね。そのように仏にびっしり裏打ちされている。その裏打ちされているということを毎日学んでいくわけです」
というのであります。
「寝てもさめても、自分が意識しようと意識しまいと、仏に印づけられている。裏打ちされている」
というのです。
「われわれは意識するとせざるとを問わず、仏のふところのまっただなかに生きている。言いかえれば私自身はびっしりと背中から裏打ちされて生きている」
という言葉を読むだけでも、大きな力をいただく思いがします。
華厳経では「海印三昧」ということが説かれています。
海印三昧とは、岩波の『仏教辞典』には、
「大海がすべての生き物の姿を映し出すように、一切の法を明らかに映し出すことのできるような智慧を得る三昧」とあります。
それは、ちょうど大海原に、波が静まった時にはありとあらゆるものが姿を映しているような状態です。
ありとあらゆるものが全部、仏の海原に映っているのです。
それが仏の三昧なのです。
そこで玉城先生は、
「坐禅を行ずる時に自分の力で三昧に入るのではなくて、もう既に宇宙そのもの、仏そのものが大三昧に入っている、その宇宙の中に私はいるのだから、この場で大宇宙の三昧に与るのです。
すると、すうっと入ってしまう」
「三昧に入るときは全人格体をそのまま打ちまかせればよいのです」
「何でもないことですが、そのまま打ちまかせるということが三昧の確かな、正しい方向です。
これを誤ったらたいへんです」
と書かれています。
「仏に裏打ちされている」、「仏のふところのまっただなかに生きている」などという表現は、玉城先生ならではの、実感のこもった良い表現だと思います。
迷いが取り除かれて悟りが現れるのではなくて、すでにこの迷いの暮らしが、そのまま悟りに裏打ちされているのです。
色即是空、空即是色と説かれますが、色の世界は、空に裏打ちされているのです。
つねに同時なのです。
そのことに気づけば、無理に力んで坐るのではなくて、そのまま打ちまかせればいいということなのです。
ただ、出入りの呼吸に任せるのであります。
ただこのままにゆだねるのであります。
私も、この頃になって、ようやくそんな坐禅を楽しんでいます。
横田南嶺