無舌(むぜつ)
名人といわれた円朝のエピソードを紹介していました。
「明治期に東京を襲ったコレラで興行はすべて休業に。
円朝は家中の衣類を質に入れ、困窮しているほかの落語家を援助した。
「大師匠の情に一同感泣した」」
と書かれていました。
余録にも、「いまのコロナ禍に響くエピソードだ」と評しています。
この話は私も存じ上げませんでした。
余録では、円朝が、「牡丹燈籠(ぼたんどうろう)」や「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」といった長編の怪談噺(ばなし)を創作自演されたことにも触れています。
亡くなった桂歌丸師匠が、このような長編を演じておられました。
更に、余録では、
「その円朝に大きな影響を与えたのが全生庵を建立した山岡鉄舟。
舌ではなく心で語らなければ噺は死ぬと説いた。
やがて円朝は「無舌(むぜつ)の悟り」を開き、京都・天竜寺の滴水禅師から「無舌居士」の号を得た。墓石にも刻まれる」
と簡潔に鉄舟居士とのご縁を書いてくれていました。
私も毎年全生庵に法話に出向いており、いつも法話の前に鉄舟居士のお墓にお参りしています。その傍らに円朝のお墓もあるのです。
もう少し、鉄舟居士とのご縁について書いてみましょう。
円朝は、鉄舟居士より三歳年下で、天保十年(一八三九)の生まれです。
七歳で寄席に初出演しました。
安政二年(一八五五)、隆盛する柳派に対して衰微しつつある三遊派の再興を誓って、名を円朝と改めました。
一時期は、鳴り物を遣って芝居の雰囲気を演出する「鳴り物入り道具噺」を始めて大いに人気を集めました。
明治に入ってからの円朝は、道具を弟子に譲ってしまい、扇子一本による「素噺」に転向しました。
明治九年には、「朝野新聞」に「三遊亭円朝伝」が掲載されるほど、貫禄十分の第一人者となりました。
その翌年明治十年に、鉄舟居士と出会うことになりました。まだ三十九歳のときであります。鉄舟居士は、四十二歳でした。(年齢は数え年)
円朝は、十代の頃に既に、異父兄が住持していた禅寺で、坐禅の経験もあったようです。
明治十年、贔屓を受けていた陸奥宗光のご縁で、その父である伊達自得居士の禅の講義を聴かれました。
そこで高橋泥舟と出会い、泥舟の紹介で鉄舟に出会ったのでした。
鉄舟居士はある時、三遊亭円朝を招いて、
「わたしは子供の時分、母から桃太郎の話を聞いて非常に面白く感じた。
今日は桃太郎を一席語ってくれ」と要望しました。
そこで円朝は、得意の弁舌で桃太郎を話しましたが、
鉄舟居士は「お前は舌で語るから肝心の桃太郎が死んでしまっている」と言いました
円朝もさすがで、世の中の人が自分の落語にやんやと騒いでくれるにもかかわらず、どうにも物足りない気がしてならない思いを抱いていました。
そこで、ある日鉄舟居士の屋敷に赴き、事細かに実情を明かし、
「わたくしごとき者にでも、できることであるのならば、禅をやりたく存じます」と言いました。
鉄舟居士は
「今の芸人は、人が喝采さえすれば、すぐにうぬぼれて名人気取りになるが、
昔の人は自分の芸を始終自分の本心に問い掛けて修行したものだ。
しかし、いくら修行しても、噺家であれば、その舌をなくさない限り本心は満足しない。
役者であれば、その身をなくさない限り本心は満足しないものだ。
そしてその舌や身をなくす法は、禅をおいてほかにはない。
だからこそ昔の諸道の名人は皆禅に入っている。
その禅をやるには智恵も学問もいらない。ただ根気さえあればよいのだ」
と言って聞かせたのでした。
そこで円朝は、謙虚に参禅を願いました。
鉄舟居士は、趙州無字の公案を授けて工夫させました。
それから二年間、円朝は辛苦を重ね、ひとたび「無字」の境地に至ると、大急ぎで鉄舟居士のもとを訪ねて桃太郎か語りました。
すると鉄舟居士は、
「うむ、今日の桃太郎は生きているぞ」と言葉をかけたのでした。
その後、滴水老師と鉄舟居士とが相談して、「無舌居士」の号が付与されることとなりました。
そのことがあって円朝が門弟に稽古させる時は、専ら桃太郎の話をさせたというのです。
以上は『最後のサムライ 山岡鉄舟』(教育評論社)を参考にさせていただきました。
はじめから「舌無し」で、好き勝手にしゃべっていたのでは、何にもなりません。
先日小欄で、「一字の重さ」という題で、「終に」という一字について書きましたが、稽古に稽古を重ねた末に、「終に」「舌無し」に到るのです。
大拙居士の言葉で表現すれば、「無功用」になるのです。
余録の最後には、
「あす11日は円朝忌。今年は没後120年となる。
舌先ばかりで、舌の根の乾かぬうちに政策がコロコロ変わる昨今の風潮だ。
振り回される国民はたまったものではない。
それこそ無舌の境地で、心で語る政治は期待できないものか」
と締めくくられています。
厳しい暑さが続きますが、爽快な思いにしてくれる文章でありました。
横田南嶺