一字の重さ
柴山老師がお亡くなりになる年に講演された、「自力と他力」という演題の講演録であります。
そのなかで、感銘を受けたことの一つに、一文字の重さを読み込まれているということがあります。
達磨大師と二祖慧可大師との問答を取り上げているところがございます。
これは『無門関』の第四十一則に取り上げられています。
原文を記しますと、
達磨面壁す。二祖雪に立つ。臂を断って云く、
弟子、心未だ安からず。乞う、師安心せしめたまえ。
磨云く、心を将ち来れ、汝が為に安んぜん。
祖云く、心を覓むるに了に不可得なり。
磨云く、汝が為に安心せしめ覓んぬ。
という短いものなのですが、奥深い内容です。
岩波文庫の『無門関』によって、西村恵信先生の訳を紹介します。
「達磨が面壁して坐禅をしている。二祖慧可は雪の中に立ち尽くしていたが、自分の臂(ひじ)を切り落として言った。
「私の心はまだ不安であります。どうか安心させて下さい」。
達磨が言われた、
「心をここへ持ってくるがよい。お前のために安らぎを与えてやろう」。
二祖慧可は言った、
「心を探し求めましたが、どうしても掴むことができません」。
達磨が言われた、
「お前のためにもう安心させてしまったぞ」。
という内容です。
この問答について、柴山老師が、お若い頃に東京大学の高名な先生が、
「なんぼ達磨でも、こんなことで悟りが啓けるなんてチャンチャラ可笑しい」と書かれたそうなのです。
それに対して柴山老師は悲憤慷慨して次のように仰せになっています。
「私から言えば、「お前の心を持って来い」とこう言われます。
そしたら「心を求むるについに不可得なり」
終にという「終」という一字がある。
その一字が大変なんです。そこに気付かんのです。
ただ「ありませんでした」じゃあない。終という一字、この一字の中に何年苦労したか分からないですね。
それがみえんのです。自分に体験がないから……。
宗教の世界が学問の世界と違うところはそこなんです。つまり、本当に自分の心の中にドシンと来るものがなきゃ意味がないんです」
柴山老師の、あふれんばかりの思いが伝わってきます。
老師ご自身も、何年も何年も苦労された体験があるからこそでありましょう。
「ついに」不可得、という「ついに」が大事なのだというのです。
臨済禅師が、「求心やむ処、無事」と仰せになりましたが、単に求める心が無くなって無事だというのではなく、
私は、「求めて求めて、求め抜いて、その結果無事であった」という風に読みたいのであります。
柴山老師は、一字が大切だと説かれました。一字にもならぬ行間、余白にも深い意味があると、読み込まねばなりません。
横田南嶺