自力と他力
昭和四十九年の講演ですから、柴山老師ご遷化の年のものです。その和尚様がテープ起こしをされた未公開の講演録であります。
柴山全慶老師にはお目にかかったことはありませんが、先代の足立大進老師は花園大学の頃に教わったことがあり、私の恩師の清閑院の後藤牧宗和尚は、南禅寺の僧堂で柴山老師について修行されていましたので、いろんなお話をうかがっていました。
貴重な講演録であり、また「自力と他力」という興味深いテーマなので、ありがたく拝読しました。
そのなかで柴山老師は、
「禅はある意味で真宗に似ているのです」と指摘されています。
真宗とは浄土真宗であって、他力の教えであります。
それは「何故かというと、禅では修行を積むという事よりも、坐禅して悟りを開きさえすれば、一切はその中に含まれてしまうというのでしょう」
と仰せになっています。
坐禅和讃の中の、
「布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、みなこの中に帰するなり」
とありますように、
「本当の自己を根底から解決したら、一切がその中に含まれる」
というのです。
そして、禅でも真宗でも、どちらにも言えることは、
「人間の限界を自覚することが先ず要るんです」
と柴山老師は仰せであります。
「限界を自覚して絶望する」
ことが必要だと説かれています。
「絶望のどん底に初めて自己が投げ出されるから「信」が確立する」
というのです。
人間は最後にはどうにもならない「死」という問題を抱えています。
これを乗り切るには、「自力でも他力でも同じ」だと説かれます。
柴山老師は、
「信という形で、阿弥陀様のお慈悲を信じてゆくということと、また、衆生本来仏なりと、坐禅和讃にありますが、良心を良心たらしめるもう一つ大きい宇宙一杯の道理を知ることによって、人間の最後の限界である死を飛び越える、こういう点では、自力と他力とは本当は同じものなんです」
と実に明確に示してくださっています。
「人間の悪いこととか、良いことというのは人間のうえのことですね。もう一つ深いものがあるんですね。弥陀の本願とか、禅でいう仏性というようなものは、もう一つ深いものがある。それには善悪の心も白紙にせにゃならんです。白紙にすれば出てくるということです」
とお示しであります。
「禅の方では、知識を捨ててそれを自ら証すると、他力の方は無条件に信じて受け入れてしまう、自己がそうなってしまうと禅も真宗も同じになってくるんですね」というのは柴山老師の至言であると思います。
更に驚いたのは、
「親鸞聖人はある意味で、禅の坊サンに代わる程の深い修行をしておられる。
つまり修行ということは、自己を捨てるということですね。
これはあきれて捨てるか、疑ってどうにもならんと言って捨てるかということでして、親鸞聖人もその点では他力的に自己を捨て尽くしておられる」
と親鸞聖人のことを述べておられるのです。
自己の限界を知り、絶望し、自己を捨てて、自他の別が無くなって、阿弥陀様と言おうが仏心と言おうが、自己を超えた大いなるものに身を委ねてしまうのです。
ここに到っては、自力も他力も区別はないということになります。
柴山全慶老師の最晩年の講演録を拝読して、その高い見識に深く感銘を受けました。
有り難いご縁であります。
横田南嶺