朝日となりて明日を照らさん
「昨夜金烏飛んで海に入り
暁天、旧きによって一輪紅なり」
という語があります。
金烏は太陽のことです。
夕べお日様が海に沈んでいった。
朝になったらまた元のようにお日様が一輪紅色になって上ってきた。
という意味であります。
海に沈むというのは、無になることを表します。
一切の相対差別の世界が無くなることです。
坐禅の醍醐味でもあります。
ひたすら「無ー」と無になりきったところです。
これほど、清々しい、爽やかなものはありません。
ただ、ぼやっとしている「無」ではありません。
全身全霊を一呼吸に集中して「無」になりきるのです。
充実した無なのです。
ただ、無になって、爽やかになって、それでよかった、終わりではいけません。
またこの現実の相対差別の世界に戻ってくるのです。
そんなことを表したものに
ともしびの 消えていずこに ゆくやらん
暗きは もとの すみかなりけり
という古歌があります。
これは、無になったところを歌っています。
ともしびが照らしている世界は「有」の世界です。差別の世界であります。
それが消えてなくなって、どこにゆくのか、その真っ暗な所、すなわち「無」の世界、平等の世界こそが、本来の落ち着きどころなのだという意味であります。
静かに坐禅している時は、それでよろしいと思います。
しかし、そこにとどまっていてはいけません。
そこで禅の公案という問題を出すときに、この和歌の下の句がよくない、下の句を改めよという問いが出てまいります。
もう一度現実相対差別の世界で、どうはたらくかという問題です。
山本玄峰老師のことを追想した本のなかに、玄峰老師が示された和歌が載っています。
それは
ともしびの 消えていずこに ゆくやらん
朝日となりて 明日を照らさん
というのです。
坐禅して無になって、それで終わりではない、再びこの現実の世に戻って、この世を照らす光となってゆこうという願いなのです。
実に壮大な願心を歌っています。
玄峰老師は、我が紀州のお生まれの方であります。
太平洋から上る朝日の壮大な景色を思い起こさせます。
私など、せいぜいろうそくの明かりを灯して、身の回りを照らすのでも精一杯なのですが、こんな大きな願いにあやかりたいものであります。
横田南嶺