大乗仏教の特徴
シャカ族の貴公女を訪ねた時の言葉です。
善財童子は次のような質問をされています。
「すでに諸法の実相(万物の真実)を知り、出家専修の声聞・縁覚(小乗の聖者)の境地を超えて如来地(仏のさとりの境界)にあるのに、なぜ、仏とならずに菩薩(求法者)の位にとどまっているのでしょうか。
すでに輪廻の世界からの解脱を得ているのに、なぜ、輪廻の諸道に姿を現すのでしょうか。
諸仏の教えは不可思議であり、説くことはできないとされながら、なぜ、いろいろな言葉を尽くして説かれるのでしょうか。
一切諸法は空であり、全ては不生不滅、仏でさえ生起することも消滅することもないと了知しながら、なぜ、諸仏を供養するのでしょうか」(大角修『善財童子の旅 現代語訳華厳経「入法界品」』春秋社より)
という問いであります。
こういう質問をされたということは、
「すでに諸法の実相(万物の真実)を知り、出家専修の声聞・縁覚(小乗の聖者)の境地を超えて如来地(仏のさとりの境界)にあるのに、
仏とならずに菩薩(求法者)の位にとどまっている」
ということ、これがまさに大乗仏教の特徴です。
「すでに輪廻の世界からの解脱を得ているのに、輪廻の諸道に姿を現す」
ということ、これも同じです。
「諸仏の教えは不可思議であり、説くことはできないとされながら、いろいろな言葉を尽くして説かれる」
ということ、これもそうです。
「一切諸法は空であり、全ては不生不滅、仏でさえ生起することも消滅することもないと了知しながら、諸仏を供養する」
ということもそうなのです。
自ら悟りの完成を目指して、そこで終わりではなく、敢えて仏とならずに、菩薩にとどまること、輪廻から解脱していながら、敢えて輪廻の世界に実を現すこと、説くことのできない法であるのに、敢えていろいろな言葉を尽くして説くことなのです。
輪廻からの解脱ということが、仏教のもともとの目指すところだったのですが、敢えて輪廻の世界に姿を現して、人々と苦しみを共にしながら、救っていこうという願いを持つようになりました。
唐代の禅僧が、死んだ後には、牛に生まれ変わってきて、農家の人たちの為に働こうと言われているのは、まさにその精神であります。
禅は、古来不立文字といって、文字に依らないことを大切にしてきています。言葉では説くことはできない世界を尊んでいます。
そのことを十分に承知した上でなおも、いろいろな言葉を尽くして説こうと努力するのであります。
実にこれらの精神こそが、大乗仏教の大乗仏教たる由縁であります。
横田南嶺