花和尚
大下一真和尚は、鎌倉の名刹瑞泉寺のご住職であり、歌人でもあらせられます。
「花和尚」という言葉から、眉目秀麗なお坊さんを思い浮かべるかもしれません。
大下一真和尚をご存じでない方は、そのご想像にお任せします。
お目にかかったことのある方は、「花和尚?」と思われるかもしれません。実は私もその一人であります。
「花和尚」の言葉の意味は、本書に詳しく書かれています。「花」にはいろいろな意味があるそうです。本書の説明を読んでなるほどと理解ができました。
瑞泉寺の和尚様は、私も円覚寺派の和尚様方の中でも最も尊敬申し上げる方であります。
私が昨年まで住職していた、円覚寺の塔頭黄梅院は、夢窓国師のお寺であります。瑞泉寺さまもまた夢窓国師開創のお寺です。
お寺同士が俗に言う親戚のような関係(法類といいます)にあたりますので、私の住職就任以来、ひとかたならぬお世話になってきました。
私は住職二十年で譲ってしまいましたが、和尚様は三十余年も住職をお勤めで今も現役でいらっしゃいます。
歌人でもいらっしゃるので、文章がお上手であります。
本書を読んでも「軽妙」という言葉が思い浮かびました。
軽く書かれていながら、それでいて絶妙であります。「妙」というのは、きわめて素晴らしいという意味です。
目次を見ますと、第一章は「たしなみ」と題して、「草取りのマナー」、「文明の利器へのマナー」、「自然に向かうマナー」、「ものを大切にするマナー」などの見出しが目に入ります。
「たしなみ」といっても、決して堅苦しい作法を説いたものではありません。
和尚の日常の暮らしの中から、実に「軽妙」に「たしなみ」が説かれています。
そして第二章が「花和尚独語」となっています。
第一章「たしなみ」の最初に、「歌人山崎方代のマナー」という一節があります。
歌人山崎方代は瑞泉寺とご縁が深く、和尚様は方代の和歌についても造詣が深いのです。
方代の
手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る
という一首が紹介されています。
私も好きな歌であります。
尾崎放哉の
いれものがない両手で受ける
という句を思い浮かべます。
本書にもどうして「手のひらに豆腐をのせて」かと説かれていますが、これは私なども幼い頃を思い出すのであります。昭和の風景であります。
私の幼少の頃には、豆腐はもうパックに入ったものも出始めていたように記憶しますが、お豆腐屋さんには、器を持っていって買っていました。
お味噌でもパック入りではなく、お味噌の器を持っていって、それにお味噌を詰めてもらって買っていた記憶があります。お魚でもそうでした。
そんな昭和の原風景が思い浮かぶのです。
方代さんは、所帯道具がなかったと本書に記されています。
ですから、放哉ではありませんが、手のひらにのせて買ってきたのです。
また、本書には、我々お寺の世界の裏話も満載であります。
裏話の扱いは難しく、へたをすると品が無くなります。
さすが、大下和尚は、品良く描かれて、クスッと笑いながらも、心のホッとする安らぎを感じることができます。
新型コロナウイルス感染も再び増加の傾向にあり、加えて豪雨の被害も大きく、気が滅入りそうな中、ひととき心の晴れる思いが得られる一書であります。
横田南嶺