大乗仏教の精髄
善財童子が五十三人の善知識を訪ねる旅の物語です。
その中には、大乗仏教の精神が満ちあふれています。
四十番目の善知識にあたる、シャカ族の貴公女を訪ねた時の善財童子の言葉に感銘を受けました。
「私が願うのは、自分の成道ではありません。
世の人びとの煩悩を滅し、さまざまな不善の行いを取り除いて一切衆生に歓びを与え、善をよく修すことを勧めて、皆が安らぐようにすることです」
この言葉などは、大乗仏教の精髄を表しているように思います。
「世間を見れば、人びとは多く悪業(悪しき行い)をなし、煩悩に捕縛されて地獄・餓鬼などの悪道に堕ち、無量の苦を受けています」
という様子をみて、何とかしてあげたいと思う心であります。
それは、鈴木大拙先生が、明治三四年アメリカに行っている時、西田幾多郎に宛てた手紙の言葉にある精神と同じだと思います。
大拙先生は、
「予は近頃、「衆生無辺誓願度」の旨を少しく味わい得るように思う。
大乗仏教がこの一句を四誓願の劈頭にかかげたるは、直に人類生存の究竟目的を示す。
げに無辺の衆生の救うべきなくば、この一生、何の半文銭にか値いすとせん」
と書かれているのです。
四弘誓願文で、衆生無辺誓願度の一句を最初に掲げているのは大きな意味があるというのです。それは善財童子が、自分の成道を求めるのではないと言われているのと同じです。
人々の苦悩を救いたいと願う心こそが、最も大切なのであります。
しかしながら、その菩薩の大慈悲というのは、決して軽いものではありません。
善財童子が
「人びとが物事に執着する心の強さは、たとえば子が一人しかいない人が、その子を捕らえられ、子の手足が切断されるのを見たときの激しい憎悪・悲嘆のようです。
そして、菩薩が苦しむ人びとを見たときの悲痛も、同じくらい強いのです」
世の人々の苦しむ様子を見たときの悲痛が、それほどまでに大きいのです。
軽い気持ちで「ああ、お気の毒に」という程度ではないのであります。
ここに「自他一如」の心が現れています。
我が身を切り刻まれるほどの悲痛を感じるのです。
しかし、
「ぎゃくに、もし人びとが身口意の善業につとめ、功徳を積んで天界の楽を得るなら、そのことを菩薩は自身の無上の歓びとします」
人々の喜びを我が喜びと感じるのです。
そのような願いを持って、
「この衆生済度の大願のゆえに、菩薩は行を修し、諸仏を供養して薩婆若(一切智)を求めて疲倦なくありたいのです」
と善財童子は語っています。
こんな善財童子の願いに、大乗仏教の精髄を学ぶことができます。
横田南嶺