佐々木奘堂師
今までも何度か上京された折に、僧堂で坐禅の指導をしていただいています。
今回は、さすがにオンラインでの講義となりました。
いろんな資料を作っていただいて、分かりやすく講義してくださいました。
私には、エピクテトスの言葉が印象に残りました。
エピクテトスは、西暦55 ? から136年頃に活躍されたギリシャの哲学者であります。
ギリシャには、フィディアスの作った巨大なゼウス像があったそうです。
それは実に素晴らしいものであったとのことです。
残念ながら、今はもう既に無いそうです。
エピクテトスは言います。
「君たちはみんな、「フィディアスの作品(金と象牙でできた巨大なゼウス像)を見ないで死ぬとしたら、なんて災難だ」
と言って、それを見るためにオリンピアまで旅をする」
と多くの人がその素晴らしい像を見ようと旅をするのです。
しかし、エピクテトスは、
「だが、ゼウスが現にここにいて、しかも諸作品にあらわれているのならば、わざわざ旅をする必要がないのではないか?」
と言われます。
そして、「君たち自身が、ゼウスの作品なんだよ」
と説かれています。
あなた自身が、その素晴らしいゼウスの作品なのだというのです。
そのことに気がついたならば、もう旅をして、見に行く必要は無くなります。
私たちは、誰もが皆
「どのようなことが起ころうとも、それを受け入れ、耐える力を君たちは授かっているではないか。
大いなる心(元の意味は「大きい息・心・魂」、気高さ、寛大さ、矜持などと訳されている)、勇気、忍耐力を授かっているではないか」
と言われています。
大いなる心、気高さ、寛大さ、勇気、忍耐力などを兼ね備えたものが、私たちで言うところに仏心でしょう。
私たちは、みなその仏心を授かっているのです。
エピクテトスは
「神を自分の内にもっていながら、外に探し求めようとするのか?」
と私たちに、問いかけます。
外に向かって求める事は無いと気がつくことが、臨済禅師の説かれる「無事」にほかならないのです。
私は、エピクテトスの言葉から、臨済録の教えがより一層明らかになったという思いがしました。
いつもながら、坐禅一すじに打ち込まれている奘堂さんの、熱い思いは、オンラインでも十分に伝わって参りました。
横田南嶺