感動の一冊『ペスト』
そうして頂戴した本が、「カミュの『ペスト』」でした。
いろんな方からいろんな本をいただくのですが、この本には感動して一気に読み終えました。
今年読んだ本では、一番の感動でした。
よくこのたびの新型コロナウイルスの影響で、カミュの『ペスト』が見直されているということは聞いていました。
しかしながら、ただでさえ、感染症の暗い気持ちになっているところに、また気が滅入るようなものを読もうという気にはなれずにいました。
大竹先生に、うかがった話では、カミュの『ペスト』は今注目されているけれども、とても大部の書物なので、最後まで読了する人は少ないのではないかということでした。
そんなたいへんな書物なら、私などにはなおさら読むのは無理だなと思ったのでした。
そんな『ペスト』を大竹先生が、六十分で読めるように書いてくださったのが、この本なのです。
サブタイトルにも「60分でわかる」と書かれています。
こんなに深い感動が得られる本であるとは思いもしませんでした。
まず、この本は、ペストという今の新型コロナウイルスよりも強い感染症が広まる中での物語であります。
主人公は青年医師、その知人の青年の二人が中心になっています。
最初に「不条理」ということが説かれています。
なぜこんな感染症が起こるのか。
なぜ今なのか、なぜこの街なのか、なぜ私なのか……
これらの「なぜ」の答えてくれるものはありません。
不条理なのです。
その不条理の中を生きてゆかねばならないのです。
そんな不条理の中で、一つの答えを出そうとする者が出てきます。
神父さんです。熱心な神父さんは、このペストは、神が人間に下した罰だと説きました。
しかし、その神父さんも、とある少年がペストに罹り苦しんで死んでゆく有様を見て、考えが変わってゆきました。何の罪もない少年も苦しみ死んでいったからです。
いつ誰が感染するか分からない恐怖とどうしようもない極限状態の中で、人は二種類に分かれると書かれています。
「自由な人間」と「囚人」とであります。
「自由な人間」といっても、閉ざされた所から脱出することではありません。
そんな状況のなかにあっても、そのどうしようもない現実にあらがいつつ、
「人間であること」を失わずに、「人間の優しさ」を保ち続ける人のことを言います。
逆に「囚人」というのは、「与えられていることに依存し、戦いを放棄した意志なき者」を言います。
青年二人は、「人間であること」を失わずに、「人間の優しさ」を持ち続けたのでした。
二人が得た結論は、
「心の平安に至るために、どうすればいいのか、考えはあるのかい?」
「あるさ。共感ということさ」
という会話に集約されます。
大竹先生は、解説で、
「「共感」はカミュの原著では、「sympathie」という言葉で表現されています。
「共感」と訳されることが多いのですが、語源的には、「いっしょに苦しむ」、共苦という意味があります。
つまり、共感の根底には、共苦がある、ということです」
と説いてくださっています。
どうしようもない極限状態でも、その環境の奴隷になることなく、
「人間であること」を大切にして、「人間の優しさ」をたもち続け、
いっしょに苦しむ共感によって、心の平安を得るというのです。
最後に一緒にペストと闘った青年もペストによって亡くなります。
カミュは、
「黙ってしまってはならない。ペストの非道と暴虐、その犠牲になった人々がいたことを証言し続けなければならない。(中略)歓喜する群衆の知らないことを、自分は知っている。
ペスト菌は決して死ぬことも、消滅することもない。
何十年もしんぼう強く待ち続け、再び人間に不幸と教訓をもたらすためにネズミたちを呼び起こし、幸福な街を襲うだろう」
と書かれています。
大竹先生は、解説の中で
「新型コロナがもたらした理不尽な状況の責任を、決して、だれかに(あるいは一国に)押し付けてはいけません。それは、囚人のやり方です。
これからのわたしたちは、優しさを持った自由な人間であり続けましょう。
……
わたしたちには、生まれながらに優しさが備わっています。そんなわたしたちが「自由な人間」であることを望み、「自由な人間」として共に苦しみ共に戦い、未来を選択していく先に、平安があるはずです」
と書いてくださっていて、ああその通りだと思うのです。
久しぶりに、一気読了し深い感動に包まれました。
横田南嶺