別処に落ちず
毎日新聞の二十七日の朝刊『余録』を読んでいると、「禅の言葉に「好雪片片別処に落ちず」というのがある」
という一文が目に入ってきました。
新聞の朝刊のしかも一面に禅語が掲載されるというのは珍しいことです。
過去にも『余録』では何度か禅語を載せてられていたことがあります。
どのように書かれているのか、少し読んでみましょう。
「好雪とはみごとな雪のこと、そのひとひらひとひらも別の所に落ちていないというのである。
「では、どこに落ちているのか」と聞きたくなるのも分かる。
だが、そうたずねた修行僧はいきなり平手打ちされてしまった。
禅語辞典によれば、雪の一片一片がぴたりぴたりと落ちるべき所に落ちているというのが先の言葉の意味だという。
ひらひら舞う雪も定めに従って舞っているのである」
と書かれていました。
その話を受けて、
「ならば、咳やおしゃべりで口から飛び出す無数の飛沫も「別処に落ちず」というわけか。
空気中を舞う粒子の動きを追うシミュレーションは、今日ではスーパーコンピューターによって行われる。
新型コロナ対策の頼みの綱である」
と話が展開して、スパコンの話題になってゆくのでした。
さて、このように禅語が紹介されるのは有り難いことなのですが、
「では、どこに落ちているのか」と問う修行僧が、いきなり平手打ちされてしまったとだけ書かれてしまうと、
やはりなんともとりつく島もない、禅というのは実に乱暴な教えのように思われてしまうかもしれません。
今の時代であれば、質問をして、いきなり平手打ちされたら、それこそ記者会見ものであります。
禅問答はわけがわからないと言われるゆえんでもありましょうか。
これなども、決して木で鼻をくくったような応対をしたわけではないのです。
修行僧の無礼を咎めたわけでもありません。
どこに落ちるのかという問いの「どこ」を最も端的に示したのです。
舞い散る雪のひとひらひとひら、皆ことごとく「今、ここ」に帰着するのです。
舞っている最中も「今、ここ」を離れてはいないのです。
別処とは、頭であれこれ考えてどこだろうか、そこだろうかと思い描くことのすべてを言います。
みな「今、ここ」を舞い、「今、ここ」におさまるのです。
その「今、ここ」を最も端的に、「ほら、ここだぞ!」と示したのが、この平手打ちなのであります。
しかも、単に「今、ここ」という言葉では、まだ概念として「今、ここ」をとらえてしまうかもしれません。
そこで、今そのように質問している、生身の体をもったあたな自身の「今、ここ」であることをはっきりと示してくれたのです。
横田南嶺