大用国師 其の二
「嘘か本当の話か知らないが……」
と前置きしながら、鈴木大拙先生が『大慈、大悲』について、語ったというエピソードです。
原文をそのまま紹介します。
「昔、円覚寺の住職に誠拙という人がいたことがある。
この和尚がはじめて円覚寺にきたころは、円覚寺は鎌倉近在の人びとのバクチの中心になっていたという。
このバクチ場化してしまっている寺を、どうやってまともなものにするのかと人にたずねられたとき、
誠拙和尚は、『わしもいっしょにバクチをしよう』
と答えたという。
こんなふうに、仏教の『大慈、大悲』は、地獄におちている人間を救うためには、いっしょに地獄までおちていくのだ。
ところが、キリスト教では、悪い者はどこまでも悪いとして正面から攻撃する。血なまぐさい征服までやってのける」
というのです。
更に
「『大慈、大悲』においては、分けへだてが行なわれない。そこでは一切が「分かれて分かれない」のである。
つまり『不二』なのだ。だから、地獄におちている人間を救うためには、いっしょに地獄までおちていってしまう」
と書かれています。
バクチ場化していたとは驚く記述ですが、
『円覚寺史』の中に、著者の玉村竹二先生も、「口碑によると」と断りながらも、
「円覚寺山内の諸僧が、どてらを着て、博奕にふけっていたというが、まさかそれがそのまま事実とは思えないが…」
と記されていますから、あながち根拠のないことでもないようなのです。
禅宗というのは、こういうことも隠さずに記述するところが大らかでいいと思います。
自分の都合の悪いことは、隠そうとするのが多いと思われますが、歴史の事実は事実としてキチンと検証するのはよいことです。
過去にはそういう歴史もあったと、非を非として認めることです。
「わしもいっしょにバクチをしよう」と言ったのかどうかは、いくら大拙先生でもその場にいたわけではありませんので、確かなことではありません。
朝比奈宗源老師が『禅文化60誠拙禅師特集』に、そのあたりのいきさつを書かれています。これも煩を厭わずに引用します。
「……誠拙さんが月船老師の印可をうけて後、円覚寺から、どなたか将来円覚寺の中心となって衰微しきったこの寺の再興をするような有為な人物をご推薦願いたいと申入れたのに対し、月船老師は誠拙さんを推し、その大任を命じた。
こんなことを書くのはつらいが、その時分の円覚寺は全く綱紀が緩るみ、僧侶の生活も甚しく乱れていた。
いくら偉いといっても漸く二十七歳であった誠拙さんは、その頽廃の甚しさにあきれ、とても自分のような若僧に改革などできないと思われたので、暫くいて東輝庵へ帰り、月船老師に相見して、
「円覚寺の紊乱(びんらん)は聞きしにまさるもの、私のような者に果せる仕事ではございません、帰って参りました」
と申上げると、老師はその言葉が聞えなかったような様子で、
「わしはこの人を、見そこないましたかナ」と、
独言のようにいわれた。
わしはこの人ならきっとやりとげるだろうと信じたが、この人はそれだけの根性はない人であったか、わしの眼が狂っていたのかなあという意味である。
これを聞いた誠拙さんはぐっときた。
老師はそれ程自分を信じて下さったのか、それを知らずに仕事が困難だからと、
のこのこと帰って来た自分は、なんという腑甲斐ない男か、ううん!と心の中でうなって、ようし!やらずにおくものかと覚悟をきめ、
威儀を正して老師に一礼して、ものもいわずに引下がり、玄関に置いてあった袈裟文庫を肩にひっかけ、直ちに円覚寺に引き返した。
それからの誠拙さんは、すすんでその堕落しきった坊さん達の仲間にとけこみ、賭けごとなどをしている時でさえも席をはずさず、
煙草盆の火を入れてやったり茶をくんでやったりして和光同塵し、徐々に一山の風規を改め、三十年もの長い間に、
伽藍の修理や再建、僧堂の創建、規矩の制定等々から、その門下に優秀の人材を多数打出し、開山仏光国師の再来と呼ばれ、
晩年には仏光国師の法孫の開いた京都の天龍、相国の二大寺に招聘されて、それぞれに僧堂を創建したり、
さらに南禅その他の諸寺に応請したりして、ひろく天下に化を布かれた」
というのであります。
「見そこないましたかナ」の一言で師の心を察して、踵を返して円覚寺に赴くくだりの描写は活き活きとしていて、青年僧であった誠拙禅師のお姿が思い浮かぶようであります。
その一言で、円覚寺にとどまり、円覚寺をみごとに再興して下さったのでした。
毎年六月二十八日、大用国師のご命日になると、この話を思い起こして読経するのであります。
横田南嶺