仏さんのお心の中には
その本の中に、足利源左の言葉として
仏さんの
お心の中には
おらげ(私の)他人のげって
区別は
ないけんのう
というのが出ています。
足利源左さんというのは、小欄でもたびたびご紹介している、妙好人の因幡の源左さんのことです。
この言葉が、怨親平等の根本の考えだと思って、よく引用させてもらっています。
ただ、この言葉の出典がどこにあるのか、ずっと分からずにいました。
私の手元にある妙好人の本を見てもでてこないのでした。
ようやくこの言葉のもととなる話を知ることができました。
こういう話なのです。
一人の女性が田草を取つていました。
畔で赤ん坊が声をあげて泣いています。
これを見て源左さんは「や、も泣いとるに、はやう乳呑まして、いんでやつたがええがのう」
と言いました。
早く赤ん坊に乳を飲ませてあげなさいということです。
その女性は「ここだけは草を取つておかぬと、あした手づかえが来るで、もう一寸もう一寸と思つてやつとるだに」と答えます。
源左さんは、「よしよし、それじゃ、おらが代りにその草を取つてさんしようかいの。はやう乳吞まして、いんなはれ」
と言いました。
そう言って源左さんは草を取り始めました。女性は、
「そうして貰えば助かるがやあ、そんなら、お爺さん、あとをたのむけんなあ」
と言って家に帰って行きました。
晩になつても、源左さんがなかなか帰ってこないので、家の者が心配して探しに来ると、なんと源左さんがしきりに隣の田んぼ草を取つているではありませんか。
「お爺さん、他人の田んぼの草まで取らんでもええがなあ」と言います。
源左さんは、「そがあに気の小さいことを言わんでもえ、、
仏さんのお心の中には、おらげの、他人げいのって区別はないだけのう」
さう言って草を取り終わつてから家に戻つたという話なのです。
広い仏さまの心に中には、自分の他人のという区別はないということです。
われわれ禅宗では、これを「自他一如」といって、大切な心境であると説いています。
「自他一如」を体験しようとして、一所懸命に力を入れて努力するのですが、力を入れすぎて空回りしたり、あるいは自他一如になったぞといって新たな自我を生み出したりしてしまいがちです。
源左さんは、担いでいた重い草の束を牛の背中に負わせた時に、「ふいっとわからせてもらった」と述懐していますが、ふと気がついたのでした。
すべては阿弥陀様に抱かれているということを。
ですから、何の力も費やさずに、自他一如であると気がついているのです。
自他を越えようなどと力むこともなく、自然と無心に隣の田んぼの草も取っているだけなのです。
そんな大いなる仏さんのお心に抱かれている私たちなのであります。
横田南嶺