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臨済宗大本山 円覚寺

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2020.06.16
今日の言葉

喫茶去

細川晋輔さんと対談した折のこと、禅語について質問を受けました。

「喫茶去」という、このよく知られた禅語をどう説明しますかというのです。

これは、私は率直に

「これはよく分かりません、私は今まで、この「喫茶去」について解説をしたことも、文章にしたこともないのです」と答えました。

よく知られているのですが、難しいのです。

まず意味がよく分からないのです。

喫茶去は、松原泰道先生の『一期一会』の本のなかにも出てきています。

松原先生は、喫茶去の意味を「お茶を召しあがれ」である。「去は喫茶の語句を強める助詞で意味はない」と説明してくださっています。

私なども、そのように教わったものです。

しかし、近年の研究によって、それは「且坐喫茶」の意味であって、「喫茶去」は違うと言われるようになってきました。

入矢義高先生の『禅語事典』には、

「「茶を飲んでこい」または「茶を飲みにゆけ」という意であって、あちらの茶堂(茶寮〉ヘ行って茶を飲んでから出直してこい、という叱責なのである。

「まあ、お茶をお上がり」というのは、「且坐喫茶」(且く坐して茶を喫せよ〉と混同した誤解であるが、しかし日本では古くからこの誤解が伝統的に受け継がれてきた。

本来なら「喫茶去」と言われたとたん、ギョッとなって忽々に退散せねばならぬはずである。

誤解がそのまま無反省に正統として踏襲されるというのは、敢えて言えば、日本禅に特有の独善的な体質の一つの現われでもあろうか」

と厳しくご指摘であります。

原典は、『趙州録』です。

小川隆先生の『中国禅宗史』から、原文の訳を引用させていただきます。

新しくやってきた二人の行脚僧に、趙州禅師が問われた。

「貴公、前にもここへ来たことがあるか?」

「いいえ、ございません」

「うむ、下がってお茶を飲みなさい」

もう一人にも、問うた、

「前にもここへ来たことがあるか?」

「はい、ございます」

「うむ、下がってお茶を飲みなさい」

院主(寺の寺務局長)が趙州禅師にたずねた。

「初めての者に茶を飲みに行けと仰せられるのはよいとして、前にも来たことのある者にも、なぜ、茶を飲みに行けと仰せられるのですか?」

すると、

趙州 「院主どの!」

院主 「ハイ!」

趙州 「うむ、茶を飲みに行きなさい」

というのです。分かりやすい訳で助かります。

小川先生は、この「院主どの」と呼んで、「ハイ!」と答えたところに注目されます。

「活き身の現実態の自然な作用・営為、そこに「即心即仏」という事実が活き活きと働き出ていることに気づく」ことが大切だとご指摘くださっています。

そこで、この二人の僧が趙州を訪ねたのが、初回であるか、二度目であるか、というのが問題ではなく、小川先生は

「要は本人が、自己の自己たるゆえん、己れが己れであるという活きた事実、それをしかと我が身に自覚しているか否か、ただその一事だけである」

と指摘されています。

そこで、この「喫茶去」を

「まあ、よい、下がって茶をよばれ、僧堂に入って、また一から修行するがよい、前に来たことがあろうかなかろうか、その一事に気づいておらねば、修行は常に今この場が第一歩だ」

と明快に解説してくださっています。

これ以上はないという説明であります。

では私が、なぜ解説できないかというと、どうも今までこの趙州和尚の語録を繰り返し読んで来て、とても自分などの器では、計り知れない禅僧だと思われるからです。

趙州録を読んでいると、とても私如き者の及ぶところではないと痛感させられています。

この時、この場面で、趙州和尚が、どういうお気持ちで「喫茶去」と言われたのが、推し量りがたいのです。

何せ趙州和尚は、かの南泉和尚のもとで四十年も修行して、さらに二十年諸方を行脚して、禅僧たちと問答を繰り返し、寺に住したのが八十歳でした。それから四十年説法をなされたのです。

私などの修行とは比べものにならないのです。

たかだか五十半ばの私など、趙州和尚からみれば小僧です。趙州和尚であったら、まだ諸方を行脚して修行していたのです。

いくら説明しようとしても、趙州和尚の心境には及ばない、次元が違うと思われます。

私は禅語を解説するときは、必ず自分が感動したり伝えたい思いが先にあって、それに禅語を当てはめるのです。

ですから、すべて自分自身の分かったこと、経験した範囲のことを禅語で伝えているのにすぎません。

それで「喫茶去」という趙州和尚の言葉を説いたことはないのです。

ひょっとしたら、八十歳を超えた頃に少し分かるかなと思ったりしますが、今の私の現状を認めると、ほぼ無理のように思われるのです。

これもまた、説けないという話が長くなってしまいました。

 
横田南嶺

喫茶去

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