わからない言葉
魚が、枯木の上に卵を産み、
鳥が急流に巣を作る
という意味の言葉なのです。
こういう常識ではあり得ない言葉が、禅の語録にはよく出てきます。
魚が川の流れに産卵するのは分かりますし、鳥が枯木の上に巣を作るのなら理解できます。
これが全くの逆なので、理解不能であります。
なぜ禅の語録では、こんな訳のわからない言葉を用いるのか、これをどう説明したらいいのか、ずっと考えていました。
最近、岩波文庫の『ブッダが説いたこと』という本を、僧堂の雲水達と一緒に輪読しています。
その中に、こんな譬話がありました。
魚は堅い陸地の性質を表現することばをもたないという話です。
「陸地を歩いてきた亀が、池に戻って魚にそのことを話した。
魚は「陸ではもちろん泳いできたのでしょう?」といった。
そこで亀は陸は固く、その上では泳げないので歩くのだと、ということを説明しようとした。
しかし、魚は、そんなことはありえない、自分の住む池と同じく陸地も液体で、波があり、泳いだりできるに違いないと言い張った」
という話です。
水の中に住む魚には、陸を想像できないのです。どんなに解釈しても、説明してみても、それはすべて水の中の解釈になってしまいます。
私などは、この現実の相対差別の世界にさ迷っているのです。
仏光国師が示そうとされた真如の世界というのは、そのような現実の相対差別の世界ではありません。
そこで、魚がいくら水の中の言葉で、水の中の解釈で、陸とはどのようなものか想像して表現しようとしても、亀はそれは違うとしかいいようがありません。
般若経典では、空の世界を示そうとしています。
空の世界は、私たちが現実に暮らしている「色」の世界とは次元が異なります。
私たちがいくら解釈し説明しようとしても、それは「色」の世界の言葉でしかありません。
ただ、「空」の世界は、私たちが想像したり用いたりする言葉では違うといって、否定するしかないのです。
そこで、般若経典は、ひたすら「何々でない」「何々に非ず」と否定を延々と繰り返すのです。では「空」の世界は何かというと、何も説けないということになってしまうのです。
以前細川晋輔さんと対談した折にも、ちょうどその日は細川さんは朝日カルチャーセンターで写経の会を担当された後で、般若心経を写経して、解説をなさるのだそうです。
私に般若心経を解説したりしないのですかと問われて、私は「般若心経は解説できないですね。今もってあれはよくわからないのです」と申し上げたのでした。
学生時代には「般若経典」が研究課題でしたので、随分と勉強した記憶があります。
しかし、今もってわからないのです。
それは、もし「わかった」としたら、魚と亀の話のように、魚の世界のことになってしまって、亀の歩いてきた陸とは違うものになってしまうのです。
魚にとって唯一可能なことは、自分が水中で見たり聞いたり考えたり、推し量ったりすることと、陸の世界は全く違うということを知ることなのです。もっと言えば魚の世界では分からないのが陸だと知ることなのです。
それと同じで、「空」の世界は、いくら言葉で説明して分かったようにしてあげても、それは所詮「色」の世界になってしまいます。
そこで、真如の世界「空」の世界は、言葉で解釈出来るものではないことを示すために、敢えて理解不能なわからない言葉で表現されたのでありましょう。
ですから、
魚が枯木に卵を産むのも、鳥が急流に巣を作るというのも、わからないというのが一番親しいのです。
そんなことを言われてもよく分からないと感じられたら、それが一番いいのです。
横田南嶺