不要不急
「不要不急」の四文字は、私などにも実に考えさせられるものであります。
この新型コロナウイルス感染症の拡大によって、不要不急の外出、催しものは控えるようにとの指示が出されました。
私の仕事などは、その一言ですべて消えてしまいました。
講演、法話、坐禅会など、みな不要不急であったのだということです。
逆に、医療従事者の方々はたいへんなご苦労をなさってくれています。配送業者や物流に関わる方々も、ご苦労なさってくださいます。学校の先生方も、オンライン授業などでたいへんなご苦労であります。
それに比べると、私の仕事などは消えて終わりであります。
ああ、不要不急だということなのです。
「せめて、不要不急の私がこうして三度三度食事をいただいて、まことに有り難い、申し訳ない、冥加に余ることだ、感謝して暮らさなければと思った次第です。」
私はそのようなことを申し上げました。
しかし、細川さんは、
「この不要不急こそが、お互いの人生を豊かにしてくれるものではないか」
と指摘してくださいました。
そういうこともあるなと思っておりました。
昨日、知り合いの和尚から、一冊の本を送っていただきました。若松英輔先生の『死者との対話』という本です。
その和尚は、私よりもお若いのですが、いつも勉強熱心で、この秋にはそのお寺で法話会を催すことになっています。私も尊敬する和尚の一人です。
その本の中にこんな話が載っていました。
若松先生が、タクシーに乗っていた時のことです。
少し言葉を交わし、しばらくして、その運転手の方が若松先生に伺いたいことがあるというのです。
それが、その運転手さん、毎日仕事が終わると夜、哲学者のデカルトを読んでノートをつけているというのです。
別段、もと学者で今タクシーの運転手をなさっているわけではないのです。
ご自身は高校しか卒業していないけれども、若い頃から哲学を勉強したくて仕方なかったというのです。
仕事に追われて今まで出来なかったけれども、この年になってやっと始めることができたのだそうです。
そこで、乗客が若松先生だと分かったのかどうか、哲学を知っていそうに思ったので、デカルトに関するよい本があったら教えて欲しいと頼まれたという話なのです。
しかも、その運転手さんの言うには、デカルトの『方法序説』を毎晩読んでも、いまだに分からない、解説本を読んでもつまらない、デカルトを論じる本と自分の関心は違うというのです。
デカルトについて詳しくなりたいわけではない、デカルトと話をしてみたいのですと若松先生に打ち明けられたのでした。
そんな会話をして、若松先生は、こう書かれています。
「この人がデカルトを読んでも、仕事上の明日の売り上げには、おそらく大きな変化はない。むしろ睡眠時間が少なくなるかもしれない。
しかし、彼の魂は躍動している。それは、発せられる言葉からも十分に伝わってきます。
私は、ああこういうところに真実の読者がいると思った。こういう人に向って書いていこう、と心に決めました。」
というのであります。
タクシーの運転手さんにとっては、デカルトを読むことは不要不急かもしれません。
私などが、毎月臨済録の講義をしたり、仏光録の講義をしたり、法話をしたり、みな不要不急かもしれません。
しかし、そのように一見不要不急に思われるようなことが、今を懸命生きている人に、単に生きるのではなく、魂として躍動せしめるものがあるということでしょう。
そう思うと、なおのこと、こちらが真剣に学び研鑽を積まなければならないと思います。
この管長侍者日記を開いてくださる皆さまも同じような思いかもしれません。
その思いに答えるために、より一層真剣に一日一日を生きて、書かねばならないと、若松先生とタクシーの運転手の話を読んで思ったことでした。
横田南嶺